お台場で「海苔」の刈り取り

刈取り開始

前回のブログで、お台場海浜公園での「海苔の養殖活動」をご紹介したが、1月18日の朝に、中間刈取りが行われたので見学に行ってみた。

11月から3月まで、レインボーブリッジは冬時間になっていて、歩行者やランナーは10時からしか通ることはできない。

このため、この日ばかりは、ゆりかもめに乗って台場海浜公園に行ったのだが、海苔ひびのある場所に着いた午前9時には、すでに収穫作業が始まっていた。

この時間だと、さすがに観光客の姿は見えない。

ただ、海苔ひびの周辺には、ノリ養殖を総合学習の時間で学ぶ港陽小5年の生徒や、この活動を支える木更津市の漁協の関係者、地元お台場の人たちが集まっていた。

海苔網についている

海苔ひびに固定された種網が見えた。

海苔が網に絡みついている。

吸引器で吸い込む

小舟に乗った人が、掃除機のような吸引器で、種網に着いた「海苔」を吸い取っている。

冷たい海に入って、その作業を手助けする人もいる。

育てやすい「スサビノリ」

収穫関係者に話を聞くと、

養殖している海苔は「スサビノリ」といって、病気に強く育てやすい種類ということで、「今年はこれまでのところ、極めて順調に育っている」と話していた。

家に帰ってから調べると、”今から50年ほど前に千葉県袖ケ浦奈良輪で「ナラワスサビノリ」の養殖が確立し、病気に強く育てやすいということで全国に広く普及した”と書いてあった。

江戸のころから隅田川下流域で養殖された「アサクサノリ」は味・香りともに一級品だが、干拓、埋め立て、水質汚染などで自生に適した環境が失われ、今では激減しているということだ。

こんなに採れた

これが、この日に収穫した海苔の一部。

子供たちのなかには、早速、海苔の感触を確かめてみる子もいた。

この海苔の一部は検査に回され、大腸菌や放射能などを調べて、食用に適するかどうかをチェックするという。

これまで過去の取り組みの中では、食用にするのに特に問題はなく、すのこで乾燥して作った海苔などが子供たちに配られてきている。

この日は、残りの海苔で「押し葉作り」が行われ、

2週間後の2月1日には、収穫と海苔すき体験、佃煮作りが行われる。

関心のある方は「お台場海苔作り」で検索して申し込めば、一般の人も参加できるとのことだ。

海浜公園

ここお台場海浜公園は、2020年の東京五輪では、トライアスロンと水泳10キロの競技が予定されている。

ところが去年の8月、イギリスのタイムズ紙が「お台場海浜公園の大腸菌の数値は安全基準を超える」との記事を掲載したと伝えられた。

さらに「昨年度、東京都内には、海水浴場としての水質基準をクリアーしている場所はない」との記事を見た記憶もある。

昨年までは、お台場海浜公園の海底に酸素を送り込んで、水質を改善する取り組みが行われていたが、現在は行われていない。

オリンピックに向けて、水質の面で問題はないのか、多少の心配がある。

手に着いた海苔

小学校の目の前にある海で、環境を学ぶ子供たち。

子供たちの「ふるさとの海」が、オリンピック会場として世界に紹介されるのは6年後だ。

しっかり準備を進めてほしいと思う。
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JR新橋駅の「SL広場」


SL広場

今年は9月に入っても、残暑の厳しい日が続いている。

9月2日に気象庁が発表した所によると、今年の夏は日本の平均気温が平年を1.06度上回り、1898年の観測以来4番目に高い「異常気象」だったとのこと。

この高温は、地球温暖化の影響もあるということだ

9月1日の日曜日、走れる気温ならば走るつもりだったが、余りの暑さに走りはあきらめ、散歩することにした。

ビル陰を選んで歩き、やってきたのはJR新橋駅の日比谷口の前にある、通称「SL広場」。

その名の由来のSL

改札口を出た正面に、SLが展示されている。

「新橋~横浜間に日本で初めての鉄道が開業して100年になるのを記念して、1972年(昭和47)に設置された」との説明があった。

だが、開業当時の「新橋駅」は、現在の新橋駅ではなく、ここから遠くない汐留地区にあった。

ターミナル駅が東京駅に移って、旧新橋駅は貨物のターミナル駅の「汐留駅」に代わり、「烏森駅」が2代目の新橋駅に代わったのだ。

従って、”「汽笛一声」の新橋駅は、この場所ではなかった”と紹介するのも親切のような気もするが、その説明はなかった。

それはともかくとして、

恐らく、この広場は、全国で最もよく知られた駅前広場ではないだろうか。

実際この地に来たことのない人でも、ここで行われたニュースなどの街頭録音は見ているはず。

「会社員のおじさんたち」が社会問題に熱弁をふるう様子は、度々テレビで紹介されている。

しかし、この日は、人影もほとんどなく、とても静かだった。

気温と説明

この時の気温は35度、東京では9月に入ってから2日連続で猛暑日を記録していた。

「広場では、夏の間、自動的に広場に雨水を給水し、打ち水をした状況を人工的につくりだしている」と書かれていた。

しかし、照りつける太陽のもとでは、その効果を実感することはなかった。

昔からおじさんたちで賑わった

今年は、日本でテレビ放送が始まって60年。

この写真は、テレビ放送が始まって間もなく、新橋駅前のこの場所で、テレビの受像公開が行われた時の様子。

映像を拡大して、スクリーンに投影している。

どうやら、画面は野球中継のようだ。

それこそ、黒山の人だかり。

そして、写真の右上のところに、競輪を広告するネオンサインのような灯りが見える。

川崎、花月園、平塚、小田原 という文字が読める。

そして今も、同じ場所に競輪の場外車券売り場がある。

昔と同じところに車券売場

その建物の壁面に、大きなポスターが張られていて、少し興味をひかれた。

そのポスターには、「顔より太もも」とのロゴが大きく書かれていて、写真はこんな風だ。

ガールズ競輪の広告が

これは「ガールズケイリン」と言う、女子のケイリンのPRポスター。

ネットで調べてみると、

写っている田中麻衣美選手は、女子ケイリンの一期生。

選手になる前はブライダルモデルをしていたとのことで、太もものまわりは58センチ。

モデル時代のウェストと同じとのことだ。

去年7月にデビュー、これまで1勝という戦績を残している。

日本の競輪の歴史は1948年に始まり、女子の競輪はその1年後の1949年から15年間開催されていたというから、歴史は古い。

昨年のロンドン五輪では、女子のケイリンが正式種目になっている。

日本で生まれたケイリンが、オリンピックで、男子・女子ともにオリンピックの正式種目になったことに加え、このインパクトのあるポスターの効果で、

女子ケイリンを目指そうという人が増えるような気がするが・・・

はたして、どうだろうか。

「おじいちゃん子」家光~東照宮


芝東照宮

港区芝公園にある「芝東照宮」。

祭神は東照大権現、即ち「徳川家康」だ。
ご神体は、60歳を迎えた家康が自ら命じて彫刻させた等身大の家康像。

本殿

ご神体は、増上寺境内の家康を祀る廟・安国殿に安置されていたが、明治初期の神仏分離によって安国殿は増上寺から分かれて東照宮と称した。

その安国殿を造営したのは、家康の孫で3代将軍の家光。

大正4年(1915)には旧国宝に指定されたが、昭和20年5月25日の東京大空襲で、そのほとんどが焼失してしまった。

残ったのは、ご神体の像と、家光の手植えといわれるイチョウだけだった。

現在の本殿は昭和44年に再建されたものだ。

霊夢像

これは家光の夢の中に出てきた家康の姿を、御用絵師の狩野探幽に描かせたもの。

「東照大権現霊夢像」といわれるもので、夢に現れた家康を描いたものは10枚を超える。

家光はそれほど家康の夢を見ていたということだろう。

そしてまた、それほど家康を深く崇敬していたということなのだろう。

幼いころ病弱で容姿も美麗とは言えなかった家光。

父である2代将軍秀忠は二つ年下の弟・国松(のちの忠長)を寵愛したことから、乳母の春日局が家康に訴え、家光の世継ぎが決定されたとの話は、様々な歴史番組で見たことがある。

空襲でほとんど焼失

家光が、世界遺産にも指定されている日光東照宮の大規模改築をしたのは寛永11年(1634)。

一方、芝東照宮の前身の安国殿を造営したのは寛永10年(1633)、その再建は寛永18年(1641)だから、

二つの東照宮はほぼ同じ時期に作られている。

しかし、こちらはの東照宮は空襲で焼けてしまい、日光とは比べるべくもない。

家光のイチョウ

これは、空襲から焼け残った大イチョウ。
現在の本殿の近くにある。

案内板には「寛永18年(1641)安国殿の再建に際し、家光が植えたものと伝えられる」と書いてある。

事実ならば、樹齢は370年ほど。
幹のまわりは約6.5mで、東京都の天然記念物に指定されている。

台徳院殿霊廟惣門

芝東照宮のすぐ近く、100メートルも離れているかどうかの場所に建つ「台徳院殿霊廟惣門」。

家光の父・秀忠の霊廟の門だ。

これは門の内側から、日比谷通りの方向を写したもの。紅葉が美しかった。

秀忠の霊廟も、空襲のために殆んど焼失してしまい、この地に残る建築はこれだけだ。

夜景

ライトアップされた「台徳院殿霊廟惣門」を正面から撮影した写真。

空襲がなければ、父・秀忠の霊廟と祖父・家康を祀った安国殿(芝東照宮)がこの地に並ぶようにして建っていたはずと思うと感慨深い。


その治世中に徳川時代の基礎ができたといわれる3代将軍・徳川家光が亡くなったのは慶安4年(1651)、数えで48歳であった。

家光は、祖父・家康のそばに葬られることを望み、それにしたがって日光に葬られている。

身につけていた守袋に「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れていたというから、家光は家康をまさに神様のように思っていたのだろう。

400年式年大祭

「平成27年 東照宮四百年式年大祭」と書いた立札が「芝東照宮」の敷地に建っていた。

平成27年(2015)は、家康が元和2年(1616)に亡くなってから400回忌の年となる。

青山霊園で見かけた墓碑②~外人墓地で


外人墓地

青山霊園の真ん中を通る道の途中に、「外人墓地」の一角があり、そこには説明板が建っている。

外人墓地の歴史の看板

説明によると、「明治10年、築地居留地などに住む外国人の墓地を青山霊園に設けることが決まり、幕末から明治にかけて、教育や工学など様々な分野の基礎を作り、日本の近代化に大きく貢献された人や、その家族が多数、埋葬された。
縁故者が帰国し、管理者がいなくなった所は東京都が管理している」ということだ。

歴史の説明

「青山霊園外人墓地 お墓の縁者捜索プロジェクト」という団体のホームページによると、この外人墓地には210基の墓があり、中には縁者との連絡の取れないところもあるとのことで、「無縁仏にしないために何か情報があれば連絡してほしい」と呼び掛けていた。

埋葬者の名前

東京都が設置した案内板には、ここに葬られている一部の外国人の名前と墓所が、紹介されている。

その中には、3代にわたって日本で暮らし、医学や教育分野で活躍したイーストレーキ家の3人の名前がある。

近代歯科医学の発展に貢献したウィリアム(1834-1887)、
23か国語に精通し、日本の英語教育の父と呼ばれたフランク(1856-1905)、
慶応大学教授として教鞭をとったパスカル(1888-1954)と、3世代に亘る家族だ。

また、北海道畜産の父と呼ばれるエドウィン・ダンと息子でピアニストのジェームス・ダンの名前もある。

キヨソーネ

イタリアの銅版作家で、明治天皇や、西郷隆盛などの肖像画を描いたキヨソーネの墓もある。

キヨソーネは、日本初の人物の肖像が入った紙幣・神宮皇后札で、神功皇后を描いた人物でもある。

肖像は,外国女性の面影を色濃く残すもので、中央区日本橋の日本銀行貨幣博物館で実物を見ることができる。

ジョゼフ彦

アルファベットが並ぶ外人墓地の中で、墓石に漢字が刻まれているものがあった。

墓碑銘が「浄世夫彦墓」と書かれている。

ジョン万次郎と同じように、漂流を経て数奇な人生を送った「ジョセフ彦」の墓だ。

ジョセフ彦蔵(1837-1897)は、本名が浜田彦蔵。

現在の兵庫県播磨町に生まれ、13歳の時船に乗っていて海難に遭い、太平洋を漂流。

南鳥島付近でアメリカの商船に救助され、アメリカから日本に帰還する途中、香港から再度アメリカに戻ってしまう。

それは、開国を求めて日本に向かうペリーの船に乗って帰国することになっていたので、アメリカの外交カードにされる懸念があり、それを嫌ったためという。

彦蔵は税関長のサンダースという人物に引き取られ、ボルチモアで学校教育を受け、カトリックの洗礼も受けた。

1858年、彦蔵は日米修好通商条約で日本が開国した事を知り日本への望郷の念が強まったが、キリシタンでは帰国することはできないので、帰化してアメリカ国民となった。

洋装姿

翌1859年、彦蔵は駐日公使・ハリスに、神奈川領事館通訳に採用され、9年ぶりに帰国する。

ところが尊王攘夷で身の危険を感じ、一旦はアメリカに戻ってしまう。

1862年、再度アメリカ領事館通訳として日本に戻るが、その翌年に通訳を辞め、外国人居留地で商売を始める。

日本初の新聞を発行

1864年、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊する。

これは日本で初めての日本語による新聞だった。

しかし、赤字で数か月後には廃刊となってしまう。

その後、明治2年(1869年)には大阪造幣局の創設に尽力。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり茶の輸出、精米所経営などを行なった。

明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅にて61歳で死去。

日本人に戻る法的根拠が無かったことから死後、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。

結局、禁教であるキリスト教の洗礼を受けたためにアメリカに帰化し、外人墓地に眠っている彦蔵。

墓の片隅に

ジョゼフ彦の墓の一角に「高田銀子の碑」と書かれた石板が建っていた。

碑文を読むと、高田銀子という人は、彦蔵の妻だった人のようだ。

昭和31年に関係者の尽力によって、田端・大龍寺から改葬し、亡夫の墓側に埋葬したと書かれている。

ジョゼフ彦とその妻・高田銀子。

数奇な人生によって、「日本人ながら外人墓地に眠ることになった二人」ということなのだろう。

青山霊園で見かけた墓碑①~忠犬ハチ公


青山霊園

先日、港区の青山霊園の中の道を走った。

青山霊園の真ん中を通る道があり、青山通りから西麻布に抜けることができる。

その時、画面奥に通じる道路の右手に「外人墓地」があることを知った。

日本の文化・経済等の発展に貢献した多くの外国人が、彼らにとっては異国のこの地で眠っているのだ。

そうした外国人を顕彰する碑も建っていた。

その日は日没で暗くなっていたので、日を改めて訪ねてみることにした。

こんな碑が

青山霊園には、数多くの「名の知れた人たち」の墓がある。

外人墓地を訪ねる前に、この霊園内にあるいくつかの墓を訪ねることにした。

まず、訪れたのは「忠犬ハチ公の碑」だ。
外人墓地から道路を挟んで反対側のブロックにあった。

「忠犬ハチ公」といえば皆さんご存知のはず、
渋谷駅前の銅像は「待ち合わせの名所」として知られている。

その「ハチ公」を偲んで建てられた碑は、飼い主の墓の横に建っていた。

飼い主の墓

飼い主は東京帝国大学・農学部教授の上野彦三郎という人で、現在の渋谷区松濤に住んでいた。

「忠犬ハチ公」の話を簡単に紹介するとこんな話だ。

物語は

ハチは上野家で飼われていた犬のうちの一匹。
秋田県大館で生まれた秋田犬だ。

生まれて間もない大正14年(1925)、秋田犬を飼いたいと思っていた上野彦三郎に買い受けられ、とても可愛がられた。

上野教授は、出かけるときには常に渋谷駅までハチを伴っていたのだったが、その翌年、上野氏は病気で急死してしまう。

死後、ハチは毎日、渋谷駅前で主人の帰りを待ち続ける。

その姿が新聞に紹介されると人々に感銘を与え、「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになる。

昭和9年(1934)には、渋谷駅前にハチの銅像が建てられ、その除幕式にはハチも参加している。

ハチは除幕式の翌年に死亡したが、戦前の尋常小学2年生の修身の教科書に「恩を忘れるな」と題して登場し、「忠犬」として広くその名を知られることになった。

墓の隅に

上野彦三郎氏の墓地の一角に、犬の置物が置かれ、花が供えられている。

線香を備えるところもある。
どなたかが、お参りしたあとがあった。

剥製が

これは、上野の国立科学博物館にある「ハチの剥製」。

こうしてハチは、剥製となって残されている。

国立科学博物館の人気の展示物の一つだ。
博物館に入館の時にもらったパンフレットにも展示場所が書いてあった。

碑の場所

「忠犬ハチ公の碑」のあるところは、青山霊園の中ほど、「外人墓地」のある所から道路を挟んで反対側に少し入った場所だ。

ヘンな人に注意

霊園内のところどころに、こんな注意書があった。

公園の中ほどの通りは車の通行量もかなりあり、ジョギングをする人たちも少なくはない。

とはいえ、決して明るい所とも言えない。

ということで、暗くなってからの通行には、どうぞご注意を。






プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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