2017年1月のスナップ写真から

台場の河津桜

1月19日、大寒を翌日に控え、一年でも一番寒いころだ。

お台場の第三台場まで走った帰り道、レインボーブリッジのすぐ下のところの木に花が咲いているのに気が付いた。

河津桜のプレート

早咲きで知られる「河津桜」だった。

お台場を築造してから150年を記念して植樹されたもの。

伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍が、台場の築造を手掛けた縁による。

開花の発表があるレベルの咲き方

十輪以上は優に咲いているから、「開花宣言」を出してもよい状態になっている。

春は着実に近づいてきている。

鷹匠イベントの看板

こちらは、正月二日の浜離宮の入り口前。

浜離宮では、将軍家の庭として鷹狩りなどが行われた歴史があることから、鷹匠の技能を今に伝える人によるイベントが計画されていたが、鳥インフルエンザが各地で確認されていることから中止になった。

先日のNスペ「ウイルス大感染時代~忍び寄るパンデミック」によると、

近い将来、鳥インフルエンザウイルスがヒトからヒトに爆発的に感染する「パンデミック」が確実に起こると伝えていた。

鳥インフルエンザウイルスの増殖に適した温度は42度Cで、今のところは体温が36度のヒトには感染しにくい。

ところが体温が39度の豚が鳥インフルエンザに感染すると、豚の体内でヒトにも感染しやすいウイルスに変容する恐れがあるのだという。

専門家は「それは時間の問題だ」と語っていた。

いざ、そんな時を迎える前に、個人も社会もそれなりの準備と心構えが必要なのだとおもう。

箱根駅伝を真上から見る

これは正月恒例の箱根駅伝の一コマ。

これまでも、間近に走る選手の姿を何十年も見てきた。

今年は趣向を変えて、「ほぼ真上から」走る姿を写真をとってみた。

これは復路の最終・10区、早稲田の選手。

後ろに蹴りだした足が、これほどまっすぐ後ろに伸びていたとは、これまで全く気がつかなかった。

だから前への推進力となって、「1キロ3分」という私では絶対に走ることのできない凄いタイムで走れるのだと納得した。

ラーメンの名店のにぎわい

次は、築地の場外市場の写真。

去年11月に築地が豊洲に移転していたら、場外市場はこんなににぎわっていだたろうか。

ラーメンの人気店「井上」の前には長い列ができていた。

築地らしい飲み屋さん

こちらは、市場の周辺で見かけた飲み屋さんの看板。

毎朝、夜が明ける前から仕事がはじまる築地らしいお店の一つだろう。

市場は、仕事の開始も早ければ、終える時間も早い。

この日も、店の中をちらりと見ると、数人のお客さんが見えた。

築地市場が、もし去年秋に移転していたら、こんなふうに賑わっていたかはわからない。

とかく世の中は自分の期待どおりにはならないもの。

そして、アメリカでは新しい大統領の誕生。

一つ大きな不確定要素が加わって、今年はどんな年になるのか、誰にもわからない。

平穏な都市であることを願うばかりだが、さてどうなることやら。
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2016 師走を走る

公園通りのイルミネーション

12月になると、都内の各地で様々なイルミネーションが輝き始める。

渋谷の公園通り一帯では、深い青を基調としたイルミネーションが、街を照らしている。

渋谷公会堂から代々木公園を結ぶ通りは、見物客であふれていた。

ちょうど今日・12月10日はノーベル賞の授賞式、日本の大隅良典さんがその栄誉を受けている日だ。

この青色は、ちょうど2年前の2014年にノーベル賞を受賞した3人の日本人研究者がこの世に送り出した「青色ダイオード」によるものなのだろう。

そんなふうに思って、闇の中に浮かぶ幻想的な光をカメラに収めた。

築地の場外市場

こちらは、築地の場外市場。

まだ正月準備には早い時期だが、歩くのもままならないほどの混雑ぶり。

近くによると外国語が聞こえてくる。

板いっぱいに盛られたウニをおいしそうに食べる中国人女性、スティックに刺した卵焼きをほうばる白人カップルなどが目についた。

築地河岸

場外市場は、築地市場が豊洲に移転しても、この地から移転することはない。

以前駐車場などがあった場所に、築地の仲卸が60店舗ほど入った「築地魚河岸」ができて営業を始めている。

この写真は、築地魚河岸の2棟の建物をつなぐ渡り廊下の上から撮ったもの、画面左側に「海幸橋棟」が見える。

主にプロを相手にする店舗とのことだが、豊洲への移転がストップした現在は、一般客の姿が目立っていた。

お台場海浜公園

こちらは、お台場海浜公園。

毎年12月になると、このあたりには種付けした海苔網が張られる。

区立小学校5年生の野外観察としておこなわれているのだが、今年はまだそんな様子は見られない。

その代わり、何か看板が立っている。望遠で写真を撮ってみた。

あさりを育てている

「アサリを増やしておもてなし」

プランクトンを食べて海水をきれいにするアサリを増やすため、マットを敷いているという。

いったいどれほどの効果があるのか、気になるところだが、なんとしてもいい結果につながってほしい。

なお、学校のホームページを調べると、今年もまもなく、海苔の張り込み作業を行うとのことだった。

船揚げ場の建設中

お台場の観光遊覧船の船着き場の近くで、こんな看板を見かけた。

水陸両用バスの船揚げ場を作っているという。

以前、東京港内で、水陸両用バスが運行したとのニュースを見た覚えがあるが、現在は定期運航はないようだ。

水陸両用バス

江東区の小名木川と旧中川の合流点あたりを航行する水陸両用バス。

亀戸を起点に定期運航している。

バスの前方に見えるのが船揚げ場。

これがないと、水陸を行き来できない。

船揚げ場の場所

船揚げ場の建設場所は、こんなところ。

レインボーブリッジを前方に臨み、目の前には防波堤もある。

東京港内をレインボーブリッジから見る

レインボーブリッジを走っているとき、東京港内を悠然と進む遊覧船の「安宅丸」を見かけた。

江戸時代の将軍の乗る御座船をイメージした船で、日の出桟橋を起点に運航している。

近い将来、東京港を航行する水陸両用バスを、こんなふうにレインボーブリッジから眺めるようになるのだろうか。

このように世の中は、少しずつその姿を変えてゆく。

あと3週間で、また新しい年だ。

 

荒川付近~ウォータースポーツの風景

新小松川橋付近

両ひざに痛みを感じて走れなくなって、半年以上にもなる。

ようやく足のの痛みも少なくなり、散歩の途中に時折軽めのランもできるようになってきた。

この日は荒川の右岸から新小松川橋を渡って、旧中川の堤まで来ると、荒川の上流に向かって漕ぎ進むボートの一団を見かけた。

ボートで上流へ向かう姿

望遠で撮影すると、こちらは女性2人のクルー。

このほか、エイトやフォアなと10艇近いのボートが、滑るように水上を進んでいった。

荒川の上流には、戸田のボートコースがあり、はるか昔に体育の授業でエイトのボートに乗ったことがある。

そのとき、私も含めた8人の素人が一生懸命漕いでいたその横を、一人乗りのボートが軽々と抜いていったという残念な思い出がある。

この日、見かけたボートの一団は、どうやらかなりのレベルの人たちらしく、指導者と思われる人が乗ったエンジン船がボートの後を追いかけていた。

荒川下流域で水上スキー

これは、上の写真を撮ったところとほぼ同じ場所で撮影したもの。

ボートの後部にできる波を利用してプレーする「ウェイクボード」の練習のようだ。

お台場では、練習している様子をよく見かけたし、大会も見かけたことがある。

波に乗ってアクロバティックなジャンプをする競技で、見ていてもとても華麗で若者に人気が出そうなスポーツだ。

見事な腕前

このジャンプの後、この人は転倒。
ボートはすぐに停止し、選手を再度けん引するためにUターンしていった。

2020年の東京五輪では、サーフィンが追加種目に選ばれているが、この競技もいつか五輪種目になるかもしれない。

こうして、夏を迎えて、荒川周辺では、ウォータースポーツをする人たちの姿が目立つようになってきた。

東大島駅ホーム下の水域に

ここは隅田川とつながる運河の小名木川と、荒川の支流だった中川が交わるところ。

画面左側が小名木川の河口で、正面が旧中川の流れ。

旧中川は、この先でせき止められているため、水面はとても穏やかだ。

このため、ボートやカヌーの練習には絶好の場所ということもあり、休日にはカヌーやボートの練習をする姿がよく見られる。

カヌーを楽しむ姿が

都営新宿線のホームは、中川の水面のちょうど真上に作られている。

そのホームの下を望遠で撮影したものが、この写真。

カヌーを楽しむ人たちが、たくさん見える。

岸辺には、ボートを収容する艇庫がいくつかあるが、その近くにこんなものを見つけた。

江東区報

地元出身の女性が、リオのパラリンピックの出場を決めたことを知らせる「区報」だ。

この記事によると、この女性は、中学から続けてきたカヌー競技を高校の時のけがで断念。

しかし、リハビリを経て、2年前からパラリンピックへの出場を目指して、ここで練習を続けてきたという。

そして今年5月、ドイツで開かれた世界大会でリオのパラリンピックへの出場を決定した。

現在は大学の1年生だという。

ちょうど今、リオ五輪での日本選手の活躍ぶりが、連日熱く伝えられている。

今回の大会では、オリンピックでの活躍を夢に見て、その実現に向かって努力を重ねてきた様々な青春群像に、たくさんの感動をもらっている。

スポーツは素晴らしい。

そして、夢に向かって努力する姿は、もっと素晴らしい。

と同時に、自分たちの若いころと比べ、身近にスポーツをする環境はとても充実してきていることも感じる。

都内にこんなにウォータースポーツの環境が整ってきているのだと、改めて実感する。

リオのパラリンピックは9月7日から12日間、このうちカヌー競技は9月14日から15日に開かれるという。

パラリンピックにはスポーツのすばらしさのほかに、五輪に負けないヒューマンストーリー・人生の物語がある。

その活躍ぶりを見て、五輪に負けない拍手を送りたい、と思う。

小津安二郎が生まれた町

誕生の地の看板

もう何年も前のこと、東京・深川を走っていていたとき、こんな看板と出会った。

あの「東京物語」をはじめ数々の名作を監督した、小津安二郎の誕生の地を案内するものだった。

その時は、この写真を撮ったまま通り過ぎたのだったが、最近、深川を走っていて小津安二郎の足跡を紹介する施設に出会ったので紹介したいと思う。

小津の誕生地

小津安二郎誕生の地は、現在の「江東区深川1-8-8。

看板が立っているのは、門前仲町の交差点を北上し、清澄通りをしばらくいったあたり。

生家は肥料問屋で、伊勢商人として手広く商売をしていた名家・「小津三家」の一族だという。
看板のある所からしばらく北上すると、「奥の細道」ゆかりの場所がある。

奥の細道 出立の地

芭蕉の「奥の細道」旅立ちの地として知られる「採荼庵(さいとあん)」があった場所だ。

採荼庵とは、芭蕉一門の杉山杉風(すぎやまさんぷう)の別邸の名前、隅田川と結ぶ運河であった仙台掘川に面したこの付近にあったとされる。

杉山杉風の家業は幕府御用の魚問屋で、この地にあった別邸は間口27m,奥行きが36mもあったというが、今は仙台掘川のたもとに小さな小屋と芭蕉像があるだけだ。

芭蕉は元禄2年、ここから船に乗り、隅田川に出て千住に向かい、「奥の細道」へと旅立った。

以前紹介した小名木川をはじめ深川には運河が多く、江戸は水運で支えられた都市であったことがよくわかる。

余談になるが、ネット上で調べていたら「女優の山口智子さんは杉風の子孫にあたる」と書かれていた。(「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」)

世界の小津

小津はこの地に1903年(明治36)12月12日に誕生、1963年(昭和38)12月12日、つまりちょうど誕生日の日に60年の生涯を閉じている。

小津少年は10歳の頃松坂に移り、中学に進む。

しかし上級学校に合格することができず代用教員をしていたが、1年でやめて上京。

19歳の夏、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社し、映画人としての人生を歩むことになる。

叔父が鎌田撮影所の地所を松竹に貸していたという縁があったのだという。

古市場文化センター

小津は24歳で監督に昇進後、東京物語をはじめ数々の名作を世に送り、亡くなる前年の1962年(昭和37)には映画人として初めて芸術院会員となっている。

ローポジションからの撮影、カメラの固定、小道具類も吟味して一級品を使う・・・等々「小津調」と言われる映像の世界を作り上げ、

世界の映画人にも多くの影響を与え、今日でも世界最高の映像作家として高く評価されている。

私が、つい最近訪ねたのは、この地図で富岡八幡宮の下方に書かれた「古石場文化センター」。

内部に「小津安二郎コーナー」があるというので入ってみた。

原節子

彼の足跡や様々なエピソードが紹介されていたが、著作権の都合上、カメラで撮影することはしなかった。

展示の中で印象的だったのは、なんといっても

小津作品に欠かせない女優・原節子(1920年6月17日~2015年9月5日)の写真や様々なエピソード。

原節子は、2000年、キネマ旬報で行われた「20世紀の映画スター女優編」で日本女優の第一位に選ばれている。

小津安二郎、原節子  ともに生涯独身であった。

展示の中には

「周辺では、二人の仲を取り持とうとしたが、それが実を結ぶことはなかった」というものもあった。

あれだけ自作のヒロインに抜擢した小津が、原を憎からず思っていたことは想像できるし、周囲が気をもんだこともわかる。

しかし二人は互いに独身で生涯を終える。

原節子が亡くなったのは2015年、95歳だった。

そしてその原節子が、女優として活躍することをやめ、一切の公の場所から姿を消したのは、1963年。まだ43歳の時だった。

1963年は、小津安二郎が60歳で亡くなった年だ。

それからの52年間、原節子は世間にその姿を現すことは一切なかった。

まさに「生きながら伝説の女優となった」のだった。

二人の間に、いったいどんなストーリーがあったのか、それともなかったのか?

大人の恋物語があったような、気もするが。

このブログを書くのに原節子の出演作品を調べていたら、 

1955年(昭和30)の作品に「ノンちゃん雲に乗る」があった。主演の鰐淵春子さんのお母さんの役だった。

小学校の講堂で見た記憶があるのだが、覚えているのは鰐淵春子がかわいかったことだけで、原節子がお母さん役で出ていたのは全く記憶になかった。

団塊の世代にとっては、そんな印象を持っている人も多いことだろう。

小津橋

古石場文化センターを出て、裏手にある「古石場川親水公園」を歩く。

古石場という地名は、江戸城築城に際し、石置き場として使われたところに由来するという。

そして出会ったのは「小津橋」。

松坂出身の商家であった「小津の生家」とゆかりの深い橋という。

江戸時代から続く「深川」の古い歴史と、改めて出会った気がした。

小名木川沿い~②万年橋から両国へ

万年橋に来た

およそ4キロ歩いて、小名木川が隅田川と合流するところに架かる万年橋にやってきた。

葛飾北斎が描いた当時、小名木川は船の往来も盛ん。このため船の通行を妨げないように、橋が高く架けられていた。

元禄の頃、この付近には芭蕉が住んでいて、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句も、このあたりで詠んだといわれている。

このため、橋の近くには、芭蕉庵跡の芭蕉稲荷神社や芭蕉記念館などがある。

清洲橋付近の地図

万年橋から隅田川を望むと、左手に清洲橋の優美な姿を眺めることができる。

「ドイツ・ケルン市のライン川に架かる吊橋をモデルにした」という説明が書かれていた。

清洲橋とヒミコ

この日は、松本零士さんがデザインした遊覧船「ヒミコ」が、隅田川を下ってゆくところに出会った。

正面は石川島の高層マンション群。

現代の隅田川を代表する景色の一つだ。

隅田川鮭の会

万年橋を渡って、北の湖部屋に向かおうとする途中、ある建物にこんな看板がかかっているのを見つけた。

「隅田川鮭の会」。近くには「やまだの鮭まつり」と書かれたポスターも見える。

近づいてポスターを見ると、「やまだ」とは岩手県の山田町であることが分かったが、「隅田川鮭の会」とのつながりはよくわからない。

近くに人影もなかったので、家に帰って調べてみたら、こんなことが分かった。

鮭の会看板

「隅田川鮭の会」は1984年、隅田川を昔のように鮭の上る清流にしようと、地元の有志の呼びかけで始まった。

ネット上の記述を見ると、毎年春先にサケの稚魚を放流し、今年・2015年現在で31回にもなるという。

稚魚の放流数は、毎年5000匹程度。

その稚魚のもとになる鮭の受精卵を、山田町の漁協から譲り受けていて、それを地元の小中学校の児童生徒たちが育てているという。

岩手県との縁は、そういうことだった。

それでは、肝心の鮭は隅田川に戻ってきたのだろうか。

ネット上の記述を見る限り、「放流した鮭が戻ってきた」というのは見当たらなかった。
残念。

夢の実現のためには、水質の向上だけでなく、鮭が産卵しやすい川の環境整備も進めなければならない。

「事はそんなに簡単ではない」のだろう。
というより、相当難しいと思う。

しかし、「隅田川鮭の会」の目標・夢は素晴らしい。

夢が持続し、長く受け継がれてゆくことを期待したい。

北の湖部屋

そして次に向かったのは、万年橋通りから少し入ったところにある「北の湖部屋」。

第55代横綱で相撲協会理事長だった北の湖さんは、11月の九州場所中に急逝、62歳だった。

部屋の前は、お相撲さんの出入りもなく、ひっそりとしていた。

記者らしい人が2人いて、弔問客を含めた様子をウォッチしているようだった。

歌手のさだまさしさんがテレビで、北の湖さんについてこんなことを言っていた。

”北の湖さんは憎らしいほど強く、子供たちには人気がなかった。
「江川、ピーマン、北の湖」という言葉があったほどだ”

そして、破った相手にいっさい手を貸そうとしなかったことで、いっそう憎らしく見えたことについても

”「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」”

との北の湖の言葉を紹介して、「理解できる」と話し、「強く立派な横綱」と評価していた。

大鵬道場

北の湖部屋から、東に数十メートル行ったところで、「大嶽部屋」と書かれた看板が目に入った。

そして玄関には、「大鵬道場」と書かれた大きな木の看板も掛けられていた。

横綱引退後に大鵬部屋をつくったのが、この場所だった。

大鵬道場

第48代横綱・大鵬がなくなったのは、2013年1月。

こちらは「巨人 大鵬 卵焼き」と言われ、子供たちに絶大な人気があったお相撲さんだった。

大鵬の訃報が伝わった時もここを訪れたのだが、昭和を代表する二人の部屋がこんなに近かったとは気づかなかった。

その二人とも、今はこの世を去った。

両国駅前の力士像と手形

JR両国駅前に建つ力士像。

台の部分には北の湖の手形もあった。

国技館内相撲博物館

両国国技館の中には相撲博物館があり、大相撲が開催されていない時期には、無料で展示を見ることができる。

入り口には、遠藤に「お姫様だっこ」をしてもらっている写真が撮れるパネルもあった。

大鵬も相撲博物館の館長を務めたことがある。

現在開かれている展示のテーマは、戦後70年ということで「大相撲と戦争」。

展示の中には、第43代横綱・吉葉山が戦場で銃弾2発を受けながらも、必死の体づくりと稽古で横綱になったというエピソードも紹介されていた。

子供だったので、吉葉山については「不知火型の土俵入りをする、きれいなお相撲さん」程度の記憶しかなかった。

「強い横綱」というイメージがなかったのは、そんなことが背景にあったのかもと感じた。

吉葉山が横綱になったのは昭和29年、

あの吉葉山・鏡里時代を知る人は、今ではかなり少なくなってしまった。

そして、昭和世代の私にとって、昭和を代表する二人の横綱が姿を消した今、

今日も、結語はこれでまとめたい。 

 ”降る雪や 昭和も 遠くなりにけり”  

(「降る雪や 明治は遠く なりにけり」 中村草田男) 

(追記)
平成生まれの皆さんだって、いつの日か、年号を「平成」に変えて、しみじみする時が必ず来るはず。

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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