両国を走っていて、出会ったもの

回向院の前で

両国まで走り、久しぶりに回向院の中に入った。

回向院はJR両国駅のすぐそばにあり、入り口前の案内板にその由来が紹介されている。
それにはこんなふうに書かれている。

”1657年に起きた振袖火事(江戸城の天主閣が焼け落ちた大火でもある)で、江戸の町では10万人以上の人が亡くなった。

その犠牲者の回向のために、4代将軍家綱がこの地に念仏堂を建てたのが、回向院の始まりで、

以来関東大震災や東京大空襲などの被災者だけでなくありとあらゆる生命が供養されている”

鳥居清長の墓

久しぶりの境内、入り口の近くでこんな墓石を見つけた。

墓石には、細身の美人が描かれた浮世絵が組み込まれている。どこかで見たような美人図だ。

調べてみるとこの墓は、写楽、北斎、廣重 春信、歌麿と並び江戸の浮世絵師を代表する一人・鳥居清長(1752~1815)のものであることがわかった。

清長はこの地に葬られたが、その後の地震や戦災などで墓が失われてしまい、

この墓は平成25年に再建されたものだという。

墓石の横に寄進者が記されていたが、その中に歌舞伎女形の坂東玉三郎さんの名前もあった。

何かゆかりの演目でも演じたことがあったのだろうか。

回向院には、この他に「鼠小僧」や「山東京伝」など著名な人物の墓があることは以前紹介した。

そして境内には、相撲関係者の慰霊のための「力塚」もあることでも知られる。

そう、両国・回向院といえば、「相撲」にゆかりの深い場所として広く知られている。

旧国技館があった

回向院の近くの案内板には、こんな説明が書かれていた。

”江戸時代、江戸各地で勧進相撲の興行が行われていた。

勧進とは、寺社の修復や再建の費用の捻出を目的としたもので、

勧進相撲は「め組の喧嘩」で知られる芝神明宮や、深川の富岡八幡でも行われていた。

ところが天保4年(1833)以降は、江戸での開催を回向院の境内が独占するようになり、

明治42年には回向院境内に「旧両国国技館」が完成した”

旧国技館 空撮写真

東京駅を設計した辰野金吾が監修した旧国技館の収容人員は、1万3千人という大きなもの。

昭和58年に、老朽化で解体されたが、その晩年には日大講堂として使われ、入学式などの際にニュースでもたびたび紹介されていた。

そして現在は、JR両国駅の北側に新国技館が建設され、今も両国は「相撲の街」としてその歴史を刻んでいる。

居住棟

旧国技館があった場所には、現在、大型の居住棟や商業施設の入るビルが立っている。

写真正面に木々が見えるが、そこは現在の回向院の敷地。

この写真の左手奥を見ると

土俵のあった所

こんなふうになっている。

実はこの円は、旧国技館の土俵があった場所を示している。

直径4.55メートルの土俵は、この場所にあった。

あの双葉山の69連勝など当時の熱狂や声援の中心は、この場所にあったのだ。

土俵の跡があることで、そんな思いもリアリティーを持って感じることができる。

横綱横丁

京葉道路から、両国駅へ通じる小路の名前は「横綱横丁」。

いかにも両国という町に相応しいネーミングだ。

今年も、間もなく夏場所が始まり、まげを結った男たちが、この街にあふれる。

現在の横綱3人はすべてモンゴル出身で、期待の若手の逸ノ城、照ノ富士もまたモンゴル出身というのは

さすがにちょっと寂しい気がするが。

日本橋両国でこんなビルが

両国橋を渡って、日本橋の方に走っていくと、こんな建物と出会った。

1階に書いてある英語の文字に惹かれた。

「As time goes by」

映画「カサブランカ」の中に登場する名文句だ。

ハンフリーボガートとイングリットバーグマンが、カサブランカの酒場で再開した時、その店で歌われていた歌詞の一節。

「時の過ぎゆくままに」と訳されることもある。

阿久悠の詞で、沢田研二が歌った「時の過ぎゆくままに」というヒット曲があったが、

カサブランカの中で歌われていた曲は

「女は男を、男は女を求める いくら時が流れようとも」というのが歌詞の意味だそうだ。

それにしても、この建物に、なぜあの歌詞が書かれているのだろう。

飲み屋さんビルでこの文句を見かけるのなら、何の不思議も感じない。

しかし、この建物にネオンサインは見えない。どうやら普通のマンションだ。

オーナーがあの名作の一場面に感動して、どうしても「あの名文句を」建物に掲げたかったのだろうか。

とすると、その背景に、一体どんなストーリーがあったのだろう。

映画に負けないくらいのドラマがあったのかもしれない。

しかし、想像が出来るのはそこまで、説明がある訳でもなく「謎は残ったまま」だ。

でも、こんな光景は、江戸情緒を色濃く残す「両国らしいのかも」しれない。

そんな思いを、一人得心しながら走っていたのだった。
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二都の紅葉で出会った歴史①国会前


日比谷公園松本楼前

今年の紅葉もほぼ終わり、季節は完全に冬の装いと変わった。

今年は2か所で紅葉の写真を見る機会があったが、その際に出会った歴史のあとをご紹介したい。

この日は、皇居・竹橋の近くにある国立公文書館と、憲政記念館で開かれていた特別展を見に出かけた。

途中日比谷公園まで来ると、松本楼の横のイチョウも黄葉となって葉を落とし、まさに黄色の絨毯のよう。

雲形池

その先の雲形池まで足を伸ばすと、カエデが鮮やかに赤く色づいていた。

アマチュアカメラマンもたくさんいて、盛んにシャッターを切っていたが、

その中の1人は私に、こんなふうに話しかけてきた。

『こんな身近なところに、こんなに美しい紅葉があるのですねえ』と。

鶴の噴水

この噴水は、冬の寒い日には噴き上げる水が凍りつくので知られているが、

この日は、紅葉に囲まれてとても華やかに見えた。

国会前のイチョウ並木

日比谷公園から、国会近くにある「憲政記念館」へと向かった。

国会近くまで来ると、イチョウ並木が目に入ってくる。

このあたりは都会の喧騒もなく、人影も少ない。

自然が豊かで、こんなに素晴らしい季節の風景があることを知らない人も多いことだろう。

憲政記念館で『明治に活きた英傑たち』と題した特別展を見る。

国会記事堂内の中央広間に、憲政功労者として銅像が飾られている伊藤博文、大隈重信、板垣退助の3人の足跡を中心に立憲政治の歩みを紹介したものだ。

憲政記念館では、こうした企画展を時折開いていて、歴史好きにはとても面白い。

井伊家の屋敷跡

憲政記念館を出て、皇居・桜田門の方へ下る道を走っていると、こんな説明が書かれた案内と出会った。

幕末、尊皇攘夷派の武士に桜田門外で暗殺された井伊直弼の屋敷がここにあったと書いてある。

井伊家がこの地を拝領する前は、加藤清正の屋敷があったそうだが、加藤家は清正の次の代に改易となり、肥後の領地を没収されている。


広重も描いていた

歌川広重が描いた浮世絵も、説明の中で紹介されていた。

説明の後ろに見える井戸跡は、江戸の名水として知られた「桜の井」。

清正が掘ったと伝えられていて、現在は道路になっているところにあったものを、今の場所に移設したのだそうだ。

江戸城を訪れる通行人に水を提供し、重宝がられたと書いてある。

因みに明治神宮内にも、清正が掘ったといわれる井戸があり、人気のパワースポットとなっている。

築城の名手・清正が築いた熊本城の地下には通路があり、昔その一部を歩いてみたことがある。

入り口はふさがれていて、一部の人しか知らない場所にあった。

敵に襲われた際に脱出に使うためと聞いたことがあるが、暗くて長くて怖いため、その真偽を確かめることは出来なかった。

清正は城郭づくりだけでなく、高度な土木技術を持っていて、井戸掘りも得意だったのかもしれない。

そして、浮世絵に戻ると、

井戸の前方、画面左手に桜田門が描かれている。

井伊直弼は、安政7年(1860)3月3日の暗殺されたその日も、この井戸のわきから江戸城に向かったという。

桜田門を望む

井伊邸のあった場所から桜田門を写してみた。

最近、一部改修してきれいになった桜田門がすぐ目の前に見えた。

今、通りには車が途切れることなく連なっている。

しかし、こうして歴史の現場に、当時と同じ距離感で立ってみると、過去の歴史の世界にわずかながら近づけたような感じがする。

歴史上の出来事が実際に起きたのだと思えてくると、「歴史上の人物も同じ人間だ」と親しみを感じるようになる。

歴史の跡を訪ねる楽しみは、そんなところにある。

女躰神社~川崎

JR川崎駅周辺地図

川崎に用事があって出かけた。

予定より早く着いたので、JR川崎駅前にある地図を見ていると、駅の近くに珍しい名前の神社があった。

「女躰神社」と書いてある。地図の右下の所だ。

アルファベットで NYOTAI JINJAとあるから、読み方は「にょたい じんじゃ」だと分かった。

なんだか、なまめかしくもある。

帰りは、川崎から家まで走って戻るつもりでランニングの恰好だったから、その足で神社を訪ねてみることにした。

鳥居の前

西口からすぐ近くの所に、女躰神社はあった。

訪ねたのは4月7日、ちょうど小学校の入学式の日だったのだろう。

新一年生と思われる子供と、お母さんらしい女性がお参りに来ていた。

狛犬も親子

神社の名前からして、豊穣、子孫繁栄、安産などにご利益があるのかと思って境内に入る。

狛犬も親が子を守るようなデザインになっていて、狛犬からは母性のようなものを感じた。

狛犬の近くには「やなせ たかし」さんが描いたアンパンマンの大きな絵馬もあった。

東日本大震災の復興に協力したいと、やなせさんにお願いしたものだとの説明が書いてあった。

神社の由来

神社の由来には、こんなふうに書かれてあった。(概略)

「(この付近は)多摩川のほとりのため、降雨のたびごとに多摩川の土砂(が)堆積し、洪水で流域が変化して大きな災害を蒙り、農耕が不可能な状態になった。その時、

一人の女丈夫が水中に身を投じて、一身を犠牲に供せられたことで住民は安堵、農耕に励むことが出来る様になった。

これも女丈夫の偉大なる御徳のおかげと敬慕し、その偉業を称えて後世に伝えるため、一祠を建立してその御霊をお祀りした」

のだという。

どうもこの説明では、この神社の由来にまつわる女性が、一体どんな女性であったのかよくわからない。

従って、残念ながら説得力もあまり感じられなかった。

神社本殿の額

そこで家に帰ってから、似たような神社はないものかとネットで「女体神社」で検索してみると、さいたま市緑区に「氷川女体神社」という神社が見つかった。

ウィキペディアによると

氷川女体神社の祭神は「クシナダヒメ」、スサノオの妻で「稲田の女神」と解釈されると書いてある。

そして近くにある氷川神社の祭神は「スサノオ」で、こちらが「男体社」とし、男女二神を対にして祀る神社が関東には多いらしい。

子孫繁栄や豊かな実りを祈るものだろうか。

若宮八幡宮

そこで思い浮かべたのは、以前知人から聞いた川崎市内の神社で行われる奇祭だった。

それは、川崎駅から東に3キロ余り、若宮八幡宮境内にある金山神社の「かなまら祭」だ。

男性をかたどった祭神をのせた神輿などが街を練り歩くことで知られる。

祭りの新聞記事を見ると、川崎宿の飯盛り女たちが性病除けの願掛けをしたことが由来とされ、近年は奇祭として国際的に知られるようになり、毎年多くの外国人観光客が訪れるという。

ネットを見ると、祭りの写真が多数載っているが、まさに性風俗満載の「奇祭」といえる。

「女躰神社と金山神社とは、何らかの関係があるのではないか」との考えも浮かぶ。

しかし、その考えに何の根拠もない。

関係がありそうだとする記述も、ネット上には見当たらない。

でも、何か面白そうでもある。

興味のある方、一つ調べてみても面白いかもしれない。


「かなまら祭」が行われるのは、毎年4月第一日曜日、

今年は4月6日だったから、ちょうど私が川崎を訪れた日の前日だった。

忘れなければ、来年、訪ねてみることにしようか。

護国寺を訪ねて②~童謡の碑と出会った

仁王門

これは護国寺の仁王門。

ジョサイア・コンドルの墓を訪ね終え、帰ろうとして仁王門近くまで来ると、石碑が2つ、私の目に入った。

2つとも、どういう碑なのか説明がないので、一体、どんな由来があるのか分からなかった。

一応カメラに収め、家に帰って調べてみることにした。

碑が二つあった

それが、この写真。

左に大きな石碑が立ち、「民謡碑」と彫られている。

そして、右の小さな碑は、童謡の歌詞と音符が記されている。

まず左の「民謡碑」だが、これは江差追分の研究を続けた青木好月という人を顕彰して、昭和57年に建立されたものという。

青木好月は、昭和24年、日本民謡協会の発足に尽力、全国組織へと発展させた人物ということだから、民謡に詳しい方はご存じだろう。

「からすの赤ちゃん」

そして、右側の小さな碑の真ん中には、童謡「からすの赤ちゃん」の歌詞と音符、それに作詞・作曲「海沼 實」という名前も書いてあった。

「からすの赤ちゃん」という曲は、同じようにカラスを歌った「七つの子」とは異なる曲で、私たちの世代なら、だいたいが知っている。

私も歌は知っていたが、歌を作った海沼實という人については、まったく知らなかった。

家に帰って調べてみると、海沼と護国寺との関係や、海沼が日本童謡界に残した大きな足跡などが分かり、興味深かった。

碑に記された歌詞

ウィキペディアなどによると、

海沼 實(1909-1971)は、長野県松代の和菓子屋に生まれた。

松代で家業を継いだものの、音楽への夢を断ち切れず、妻子を故郷に残して上京する。

音楽学校に在学中の昭和8年、海沼は「音羽ゆりかご会」という合唱団を作り、子供たちを指導するようになる。

合唱団では、川田正子、孝子、美智子をはじめ多くの童謡歌手を育てるとともに、数多くの童謡の名曲を作った。

作曲した作品のタイトルを見ると、知っている曲がずいぶんある。

子供の頃だけでなく、今でもカラオケに行くと歌う曲もいくつかあった。

ここ護国寺は、合唱団の練習の場所であったことから、音羽ゆりかご会が、海沼の3回忌に碑を建てたのだった。

みかんの花咲く丘

これは、昭和21年に作曲された「みかんの花咲く丘」のレコードジャケット。

川田正子の可愛らしい歌声が印象的だった。

海沼實のヒット曲は、

戦前から戦中にかけては

彼の初のヒット曲である、昭和13年の「お猿のかごや」

以後「あの子はたあれ」、「ちんから峠」、「やさしいお母さま」、「からすの赤ちゃん」などがある。

戦後の作品では、前述の「みかんの花咲く丘」と、その前年の昭和20年12月に作られた「里の秋」がよく知られている。

「里の秋」は、戦地から父親が無事に帰ってくるよう願う母子の思いを表現した名曲で、当時、NHKラジオの「復員だより」で使われた曲でもある。

「みかんの花咲く丘」、「里の秋」は、学校時代の親友たちとのカラオケでは、必ず歌われる「定番」曲だ。

そして、今回、海沼實の足跡を調べているうちに、改めていい曲だと思った作品がある。

それは

稲穂雅巳 作詞、
海沼 實 作曲  「やさしいお母さま」  


私がおねむになった時 やさしくねんねん子守唄

歌って寝かせてくださった ほんとにやさしいお母様


夏はねびえをせぬように 冬はお風邪をひかぬよう

おふとんなおしてくださった ほんとにやさしいお母様

 
私がおおきくなったなら ご恩をおかえしいたします

それまで達者でまっててね ほんとにやさしいお母様


どうです、皆さんはこの曲を思い出しましたか?

勿論、私の母親は「お母さま」と呼ぶような上品な女性ではなかった。

しかし、戦後の貧しい暮らしの中、自分を犠牲にして子供たちを育ててくれた、普通のおふくろの中の1人だった。

だから母親に対する感謝の気持ちにあふれているこの歌には、とても共感を感じる。


最近は、ユーチューブでこの歌を検索し、何回も聞いて、時折口ずさみながらジョギングをしている。


今、私は「イクジイ」として、孫の子育てをお手伝いしているから、

最後の歌詞だけは、こんなふうに変えて歌っている。

「ほんとにやさしい おじいちゃん」 

と。

昔はみんな子どもだった~向島近辺


長命寺の桜もち

向島百花園まで走っていく途中、この地域で生まれ育った有名人ゆかりの場所に出会った。

ここは隅田川左岸の桜橋の近く。

「山本や」という有名な桜もち屋さんだ。

創業は享保2年(1717)というから、300年近い歴史を持つ。

創業した先祖が隅田川土手の桜の葉を塩漬けにして、桜もちを考案したのだと店のホームページにあった。

長命寺

お店の裏手に長命寺があるので、境内に入ってみると、寺の名前の由来が書いてあった。

それによると『徳川家光が近くで鷹狩をした際、急に病を催し、この寺の井戸水で薬を服用したところ忽ち治った。家光は、井戸水に長命水との名を与え、以降、寺の名を「長命寺」と改めた』とのことだ。

芭蕉の句碑

これは芭蕉の句碑

「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」

芭蕉の門人・祇空がこの地に庵を作ったことに因むものだ。

境内には、立派な石に刻まれた多くの文学碑が建っている。

その中に、少し小さな碑を見つけた。

木の実ナナの碑

木の実ナナさんが建てたものだろう。

とても素敵な言葉の響きだ。

しかし「花のように恋し」というのはどのように恋するのか、その部分だけはイメージできない。

木の実ナナ

木の実ナナさんは墨田区向島の出身。

滝田ゆうの漫画の舞台ともなった旧寺島町に、トランペット奏者の父と、踊り子の母との間に生まれたとウィキペディアに紹介されている。

気さくな個性を持つ歌手、女優として活躍している。

去年、日本音楽著作権協会が、過去30年間の著作権使用料の上位100曲を発表したが、その2位に入ったのは、木の実ナナと五木ひろしがデュエットした「居酒屋」だった。
(ちなみに1位は「世界に一つだけの花」、3位は「二人の大阪」)

私と学年は同じだ。

これからも長く活躍してもらいたいと思う。

言問団子

「山本や」の近くに、これまた有名なお店「言問団子」がある。

私が写真を撮っていると、女子高校生らしき一団が、店内に入って行った。

女学生の道草の場所としては、こんな場所が好ましい。

隅田公園少年野球場

店の右手裏に小さな球場があり、ゲートに「隅田公園少年野球場」と書いてある。

よく見ると、ゲートにはどこかで見たことのある選手のレリーフがついている。

王ちゃんのバッティングフォーム

日本の国民栄誉賞第一号(1977年)の王貞治さんだ。(なぜか長嶋茂雄さんは、まだ国民栄誉賞を受賞していない というのは余談)

当時のハンク・アーロンの記録を超えた756本のホームランを打ったことでの受賞だった。

球場入口には、『昭和24年、戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして誕生した日本最初の少年球場です。

世界のホームラン王 巨人軍・王貞治氏もこの球場から育ったひとりです』という説明があった。

王さんは昭和15年・1940年生まれだから、球場ができた当時は9歳の頃だ。

王少年が、ここでプレーしていたことを想像すると感慨深い。

隅田少年野球場の利用料を調べてみた。
2時間で100円と書いてあった。

この料金の安さにもうれしくなった。

「精力善用」

これからもたくさんの球児を育てていってほしい。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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