からくり儀右衛門の墓

青山墓地

港区にある青山墓地で、広くて大層立派なお墓に出会った。

黒い石で作られた碑が立っていて、よく見ると写真の下に「東芝創業者」との説明が書かれていた。

田中久重

この人の名前は、田中久重(1799・寛政11~1881・明治14)、久留米市のべっこう細工師の家に生まれ、数々の素晴らしいからくり人形や優れた機械を残している。

彼は若い頃から発明や細工に才を発揮、

20歳のころには、祭りでからくりを披露して「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。

碑に刻まれた「万般の機械 考案の依頼に応ず」との言葉は、久重が現在の銀座8丁目に出した店に掲げられていたものだ。

「ご要望があれば、どんなものでも作ります」というのだから、自らの技術に対する強い自信と自負とが感じられる。

確かに、今日まで残る久重の作ったものを見ると、大変すばらしいものばかり。

驚くほど精巧で、完成度の高いモノを作っていたことがわかる。

ある面では、「ものづくり日本」の先駆者といってもよさそうだ。

東芝の歴史

JR川崎駅のすぐ近くにある「東芝未来科学館」では、東芝の創業者として2人が紹介されている。

一人は田中久重、そしてもう一人は藤岡市助。

藤岡市助は、白熱電球を日本ではじめてつくった人で、「東京電機」の創業者だ。

田中久重が作った田中製作所はのちに「芝浦製作所」となり、「東京電機」と合併して東京芝浦電気・東芝が誕生することになる。

茶運び人形

東芝未来科学館では、「からくり儀右衛門」が作った人形の複製や映像が展示されていて、とても興味深い。

この「茶運び人形」はとても有名だから、ご存知の方も多いはず。

この人形がどんなふうに動くのかといえば、

「まず、お客様に向かってまっすぐにお茶を運ぶ、

そして、お客様がお茶を飲み終わって湯呑を戻すと

今度はUターンして、来た道を帰ってゆく」

というものだ。

儀右衛門の作るからくりは、

水力、重力、ぜんまい、空気圧など様々な力を利用していて、とても高度な仕掛けになっている。

文字書き人形

こちらは、映像で紹介されている「文字書き人形」。

「壽」という字を、筆遣いも鮮やかに、しかも顔の表情も豊かに書いていた。

見事というほかに言葉が見あたらない。

年表

感心するのはその技術だけではない。

いくつになっても目標を失わない生き方が立派だ。

久重(儀右衛門)は、50歳を超えてから京都で蘭学塾に入門する。

そこで医学、物理学、化学、砲術などを学び、発明力をさらに進歩させてゆく。

その後、佐賀藩に招かれた久重は、日本初の実用的蒸気船等を完成させる。

さらに明治6年・73歳の時に、久重は政府の要請を受けて東京に移り、現在の銀座8丁目に電信機の「田中製造所」を設立する。

これが東芝の前身となるわけだ。

50歳を過ぎてなお、新たな目標に向かって進む姿は、正確な地図を製作して世界を驚かせた「伊能忠敬」の生き方とよく似ている。

東芝本社

田中製作所は、久重が亡くなった後に芝浦に移転、今もその場所に本社がある。

移転当時、目の前にひろがっていた東京湾の海も、今は埋め立てで運河になり、
東芝も世界に知られる企業に成長した。

東芝未来科学館の案内の方の話では、

青山にある田中家の墓所には、東芝の幹部社員が時折お参りに行くとのことだった。



スポンサーサイト

市川団十郎家の墓

団十郎家の墓

この日は、東京・港区の青山霊園にある市川団十郎家の墓を訪ねた。

1月3日、民放テレビで”当代の傾奇者”として市川海老蔵を紹介していたが、その中のお墓詣りのシーンがとても印象的だったからだ。

12代の墓誌

市川海老蔵の父・12代市川団十郎の名が墓碑に刻まれていた。

平成25年2月3日に亡くなっているから、間もなく丸1年になる。

行年は66歳。

海老蔵 初春歌舞伎

今年1月、市川海老蔵の舞台を見る機会があった。

演目は「壽三升景清(ことほいで みます かげきよ)」。

歌舞伎のプログラムに書かれた解説よれば、

「景清」は、平家物語の登場人物の一人で、平家滅亡後も源氏打倒を胸に秘め、数々の伝説的なエピソードが語り継がれてきた”反逆の英雄”。

「景清」の波乱に満ち、謎の多い人生は、能や浄瑠璃にも取り上げられているが、7世市川団十郎が選定した「歌舞伎十八番」の中の、「関羽」「景清」「鎌髭」「解脱」も景清を主人公にしたもの。

今回の演目は、市川団十郎家に伝わる「歌舞伎十八番」のうち「景清」を主人公にする4つの演目を、通し狂言としてまとめたものだ。

そして、演目の題名にある「三升」とは市川家の紋だから、

市川家に伝わる「歌舞伎十八番」の継承と復活に取り組むという、海老蔵の姿勢を表明したものといえる。

海老が描かれた幕

この幕には「海老」が描かれている。

10年前、海老蔵の襲名を祝って12代団十郎が描いたものだそうだ。

成田山のお札

そして、舞台の上部には、成田山新勝寺の「おふだ」が掲げられていた。

初代団十郎が、成田山に子宝祈願をして子供を授かったことから深く信仰することになり、

屋号の「成田屋」も、その縁から来ているという。

海老蔵が作ったお墓

団十郎家の墓所に立つ新しい墓石は、海老蔵が作ったものであるとTV番組の中で紹介していた。

墓石の左右にある墓碑には、今は12代団十郎の名前が刻まれているだけだが、海老蔵は「ここには、自分の代とその子供、さらに24代までの名前を刻むことができる」と話していた。

その言葉の裏には「市川団十郎家として、これからもずっと歌舞伎を後世に伝えてゆく」決意のようなものが感じられた。

「成田屋」のウェブサイトを見ると、

今年4月に、京都で、海老蔵特別公演「源氏物語」を行うと書かれている。

その中身の詳細は不明だが ”メトロポリタンオペラで活躍の歌手と共演”とあるから、これまでにない意欲的な取組のような感じがする。

13代団十郎”心得”は、おもしろい存在になりそうだ。

「音丸」さんの墓に出会った

天妙国寺

京浜急行・青物横丁駅近くにある天妙国寺。

旧東海道に面して建つ古刹だ。

近くに行く用があったので、久しぶりに境内を覗いてみた。

徳川家と関係が深い

江戸時代には、徳川将軍家との縁も深く、特に3代家光は鷹狩の際にしばしば立ち寄ったという。

寺所蔵の記録によると、この寺を訪れた回数は家康が1回、秀忠が2回であるのに比べ、家光は44回も訪れているのだという。

寛永11年(1634)には家光に五重塔の再建を命じられたが、五重塔は元禄15年(1702)、赤穂浪士の討ち入りのあった年に大火により焼失している。

ところで、近ごろは、葬儀もだいぶ変わってきたようで、これまでのように寺の墓地におさまるというパターンだけでないようで、

森林の中に葬ったり、あるいは核家族など家族関係の変化を背景にした無縁仏の増加など、お墓の”寺離れ”も進んでいるのかもしれない。

天妙国寺の墓地には、こんな大きな看板が立てられていた。

桃中軒雲右衛門の墓

天妙国寺には、浪曲の世界ではひときわ名高い「桃中軒雲右衛門」の墓がある。

とても立派な墓所で、墓石近くには浪曲協会の手によって建てられた「浪曲界先覚 慰霊塔」も建っている。

日本浪曲協会のホームページには、「浪曲中興の祖」と紹介されている。

寺にある案内

これは、境内に建っていた品川区教育委員会の案内板。

浪曲界の黄金時代を築いた人物という紹介だ。

最近は、テレビラジオで浪曲を耳にする機会は、昔と比べるとずいぶん少なくなった。

たまたま日曜の午後、Eテレで「東西浪曲特選」という放送があったが、出演者の4人中3人までが美しい女性浪曲師だった。

講談界と同じように、今や女性が浪曲という伝統話芸を支えているようだった。

(桃中軒雲右衛門の墓については、2011年12月25日の「旧東海道を歩いたことはありますか」②でも触れている http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20111225.html)

そして、「桃中軒雲右衛門」の墓の近くを歩いていると、墓石の横に石碑が見えたので近寄ってみた。

石碑が見えた

遠目に見る石碑は、特に珍しいわけでも、目立つわけでもない。

ところが、石碑に彫られた文字を読んでみると、昔、聞いたことのある言葉だった。

船頭可愛いや

美しい文字で、

”夢も濡れましょ 潮風夜風 船頭可愛いや 船頭可愛いや 波枕” とあり

 最後に 「音丸」と書いてある。

そうか、あの「船頭可愛いや」を歌った音丸さんのお墓に違いない 

そう思って家に帰って調べてみた。

その結果、音丸さんの家のお墓に間違いはなかった。

石碑の文字は、音丸さんの自筆であることも分かった。

音丸

ウィキペディアによると

「音丸さんは明治39年(1906)、麻布箪笥町の老舗の履物屋に生まれた」とある。

「箪笥町」というのは、江戸幕府の武具をつかさどった「箪笥奉行」に由来する町名で、武具にかかわる御家人の拝領屋敷があったからという。

箪笥職人が暮らしていた町人の町かと思っていたが、そうではなかった。

昔の地図を見ると、麻布箪笥町は、今の赤坂溜池と六本木を結ぶ道路沿いにあったが、現在の地図ではは六本木1丁目、3丁目付近になる。

そして
音丸という芸者風の芸名は、当時、市丸、小唄勝太郎、赤坂小梅と、花柳界出身の歌手が活躍していたことと関係がある。

音丸自身は、普通の商家の娘で花柳界には関係がなく、民謡を習っていて、その美声を見込まれ歌手になったのだが、

当時の人気歌手が地方巡業の際、時間拘束のために莫大な花代がかかったことから、

小唄や端唄を歌える人材を探していたという事情が、命名の背景にあったという。

早速、ユーチューブで検索して「船頭可愛いや」(昭和10年の大ヒット曲 高橋掬太郎作詞、古関裕而作曲)を聞いてみた。

また、博多で暮らしていた頃、時々耳にした「博多夜船」(昭和11年)も音丸さんが歌っていて、ユーチューブで聞くことができた。

”会いに来たかよ 松原越しによ 
 
 博多通いの あれさ夜船の 灯が見える 灯が見える”


久しぶりに聞く日本調の歌謡曲。

懐かしかったし、昔の美しい日本が眼前に広がるような思いもした。

しかし、歌の舞台となったような情緒豊かな風景は、もう今の日本から無くなってしまった。


「昭和遠くなりにけり」



柴錬と一緒に眠る人たち~伝通院


於大の墓

小石川・伝通院にある、徳川家康の生みの母・於大の墓。

於大は家康の父・松平弘忠の正室だったが、実家の水野家が織田方に従ったため、当時の主君であった今川家への配慮から弘忠に離縁される。

”於大はその後、久松俊勝に再嫁したが、人質として織田方や今川方を転々とする家康を慰めるため、音信を断つことはなかった”と案内板に書いてあった。

柴田錬三郎の墓

於大の巨大な墓石を間近に望むところに、小説家の柴田錬三郎の墓がある。

柴田錬三郎(1917-1978)は、「眠狂四郎」を生み出した作家として我々の世代には懐かしい作家だ。

歴史小説に新風を送ったことで知られている。

左に見える球状の石が、柴田錬三郎の碑、右側に見えるのが斎藤家(本名・斎藤錬三郎)の墓。

柴田錬三郎は、岡山の地主・柴田家の三男として生まれたが、山形県出身の女性と結婚した時に「斎藤家」の養子に入ったのだ。

柴田錬三郎


柴田錬三郎が生み出した眠狂四郎は、転び伴天連(拷問などで信仰を捨てた宗教者)と日本人の間に生まれた、ニヒルで冷酷非情な人物との設定。

市川雷蔵の主演で映画化され、その美しくも非情な主人公の姿は、「円月殺法」の立ち回りと共に、これまでにないヒーローとして人気を博した。

今でも、根強いファンがいるとも聞く。

作者の柴田錬三郎も、どことなくクールで、眠狂四郎に似た雰囲気を持っていた。

斎藤家の墓

柴田錬三郎と結婚した女性は、庄内藩・斎藤家の出身で、

その祖父の兄は明治維新の火付け役の1人でもあった「清河八郎」であった。

柴田錬三郎の著書には「清河八郎」という作品もあるが、その清河八郎の墓が、伝通院の墓所にあった。

清河八郎の墓

清河八郎の墓の入り口には、清河の没後に「正四位」が贈られたことを記す石柱が建っていた。

清河八郎(1830-1863)は、千葉周作の玄武館で北辰一刀流の免許皆伝、幕府学問所・昌平黌で学んだ。

桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。

清河八郎

清河八郎は新選組の前身ともなった「浪士組」を結成したことが、よく知られているが、その計画は奇想天外なものだった。

1863年、将軍家茂が孝明天皇に攘夷を誓うために上洛した際、清河は浪士組を率い将軍の警護として京へ向かった。

京都到着後、清河は「浪士組」の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷であると述べ、京で尊攘活動にあたることを訴える。

その際、攘夷に反対した佐幕の近藤勇、土方歳三などが清河と袂を分かち、その後新選組を作ることになる。

清河が朝廷に建白書を出したことで浪士組は攘夷活動のお墨付きを得たが、倒幕の危険を感じた幕府は、浪士組を江戸に呼び戻す。

そして1863年(文久3)、明治維新の5年前、山形・上山藩の知人宅に呼ばれた帰り道、麻布一の橋のたもとで、浪士組の一員であった者など6名の刺客によって清河は暗殺されてしまう。

そして、清河は、幕臣ながら清河と付き合いの深かった山岡鉄舟の妻らの手によって伝通院に葬られたのだった。

阿連の墓

清河八郎の墓石の隣りに「貞女 阿連(おれん)の墓」が立っている。

阿連とは清河の愛妻の名前。

清河は死の2年前、自分の動きを探る幕府の関係者を一刀のもとに切り捨て、追われる身になってしまった。

清河は捕まらずにいたが、阿連は同志と共に捕縛され、牢に収容されてしまう。

清河はその後、浪士組の結成の前に、松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を記した建白書を提出し、自分も含めて大赦を得る。

しかし大赦を得た時、阿連はすでに獄中で死亡していた。

清河が、阿連について詠んだ歌にこんなものがある。

「さくら花 たとひ散るとも ますらをの 袖ににほひを とどめざらめや」

亡き妻を思う気持ちがストレートに伝わってくる歌だ。

転び伴天連の墓

この墓は、6月15日のブログ「切支丹屋敷と二人の神父」でも紹介したイタリア出身のジュゼッペ・キアラ神父(墓碑名・ジョセフ岡本三右衛門)の供養墓。

禁教令化に日本に潜入したが捕えられ、信仰を捨てて日本人の妻を娶り、死ぬまで日本で暮らした。

これも伝通院の墓所の一角にある。

柴田錬三郎の作り出した眠狂四郎の父親はオランダの医師として入国した転び伴天連の「ジュアン・ベルナンド」、母親は幕府大目付・松平主水正の娘という設定。

ひょっとすると、ジョセフ岡本三右衛門は、柴田錬三郎が狂死郎の出自を設定するときに、参考にした人物かもしれないと思った。

柴田錬三郎の墓所のまわりに、こうした有縁の墓が並んでいるのも、何か不思議な感じだ。

これこそ、縁というものなのだろう。


尚、もう一つ付け加えると、

ここ伝通院は、「浪士組」が京都に向けて出発した場所でもある。

護国寺を訪ねて①~コンドルの墓と富士塚

護国寺

文京区大塚にある真言宗・護国寺を訪ねた。

護国寺は、徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の発願によって創建され、以後徳川家からの庇護を受けてきた名刹だ。

向かって左隣は、日大豊山高校。
これまで、高校野球でその名を何回も聞いた名門校の一つだ。

ここ護国寺には、大隈重信、三条実美、山縣有朋、大倉喜八郎、等々、明治以降の歴史の中に登場するたくさんの著名人の墓がある。

今回、護国寺を訪ねたのは、前回のブログで紹介したジョサイア・コンドルのお墓を訪ねるためだ。

日本に西洋建築の基礎をもたらすと共に、日本文化に強く惹かれ、日本に骨を埋めたコンドルのお墓を見たいと思ったからだ。

護国寺の境内

護国寺の境内は、とても広い。

墓地は、本堂の後方に広がっている。

寺によっては、よく知られた人物の墓については、地図に場所を示してくれるお寺もあるが、ここにはそんな手がかりはなかった。

探し当てるのは、簡単ではないと思った。

古い墓石を探しながら歩いていると、案外簡単に、コンドルの墓に出会うことができた。

コンドルとくめ夫人の墓

これが、コンドルと、夫人の「くめ」が眠る墓。

入り口に区の教育委員会が立てた案内板があったので、それとわかった。

それによると、

”ロンドンに生まれたコンドルは大学で建築学を学び、明治10年(1877)、25歳の時に、日本政府の要請により来日。

東大工学部の前身である工部大学校教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館、ニコライ聖堂、岩崎邸など多くの建築物を作り、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。

一方、「日本の造園」「日本の華道」を著すなど、我が国の文化、芸術を海外に紹介した。

日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人と共に、この地に永眠している”

と、紹介されている。

三菱1号館とコンドル

これは、去年9月に丸の内で行われたアート・イベントの写真。

街の中に置かれたベンチに、コンドルの像が配置されている。

ここは、コンドルが設計した三菱一号館の中庭。左後方に見える煉瓦の建物が三菱1号館。

近ごろ復元され、ビジネス街が日本に初めて作られた当時の様子を、今に伝えている。

墓碑銘

墓碑銘は、英語で記されていた。

ウィキペディアによると、

くめ夫人は花柳流の舞踊家とのことで、結婚したのはコンドルが41歳、くめ夫人が38歳の頃。

コンドルは日本画や日本舞踊も習っていたということで、そんなことがきっかけで知り合ったのだろう。

この二人が亡くなった日付が、墓石に刻まれていた。

くめ夫人は、1920年(大正9)6月10日
コンドルは、1920年(大正9)6月21日。

コンドルは夫人の死から、わずか11日後に亡くなっていたのだった。

そして墓石の一番下に

ERECTED BY THEIR DAUGHTER・・・”彼らの娘、これを建てる”と書かれている。

ウィキペディアには、娘について何も触れていないが、ネット上の記事には「コンドルには若き日に芸者との間に生まれた「はる」という名の娘がおり、コンドルとくめが引き取ってレディーに育て上げた」と書いてあるものがあった。

それ以上詳しい資料は見当たらなかったので、推測の域を出ないが、この墓はその娘さんによって建てられたものではないかと思った。

富士塚

日本と、日本の文化を愛したコンドルの墓に別れを告げ、山門の方に戻ってくると、「富士塚」があった。

富士塚は、富士山に模して造営された人工の山や塚のこと。

江戸時代、富士山とそこに住む神への信仰がさかんだった。

しかし、今とは違って簡単にはいけなかったので、身近な場所に富士山のミニチュアを作り、だれでも富士参拝ができるようにしたのだ。

以前、品川神社にある富士塚を紹介したが、その他にも中央区の鉄砲洲稲荷神社などでも見かけている。

1合目

鳥居をくぐって数歩行くと、1合目の標識が見えてくる。

ここの富士塚は、高さが6メートルしかないから、すぐに頂上についてしまう。

頂上。

頂上には、小さいながら「浅間神社」が祀られていた。

今年6月、富士山は世界遺産に登録された。

7月1日の山開きでは、たくさんの人達で登山道が埋まっている様子がニュースで紹介されていた。

昔は、簡単に登れなかった富士山も、今は誰でも、その気になりさえすれば富士登山をすることができる。

だから、このミニチュア富士山はもはや信仰の対象ではない様だ。

「世界遺産」ならぬ、庶民の生活文化史を後世に伝える「文化遺産」に変わってしまった感じがする。


この日の昼時、近所で働く人などが、富士塚近くの境内で食事をしたり、木陰で涼をとっていたりしていたが、

富士塚に上る人は、私の他に誰もいなかった。

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
スポンサードリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR