釧路湿原の奥へ


釧路川河川敷の下流はスポーツ空間

北海道では、パークゴルフというスポーツが盛んだ。

釧路の隣り・十勝の幕別町で生まれたスポーツで、ゴルフとよく似ているスポーツだ。

軟球ほどの大きさの木製のボールを、木でできたスティックで打ち、ホールに入れるのだが、ゴルフと違うのは殆んどの人が、スティックは1本しか使わないこと。

ゴルフのように打球が曲がらないので、技術的に難しくはない。

新釧路川の下流の河川敷には、芝の手入れが行き届いたパークゴルフ場がいくつもあり、この時期はたくさんの人達でにぎわっていた。

しかも、料金は無料。

お年寄りから小学生の子供と一緒の家族など、訪れる人の年齢幅も広い。

この日は、霧の多い時期には珍しく青空が広がっていた。

釧路川の右岸をさかのぼって、釧路湿原の奥まで走ってみることにした。

湿原大橋から奥

釧路湿原のうち、保護地と、開発地との境を走る湿原道路。

この写真は、湿原大橋から下流部・市街地の方向をを写したもので、送電線の鉄塔が見える。

更に下流には、海辺まで釧路の街並みが広がっている。

反対側の、湿原大橋から上流部は、釧路湿原国立公園が広がっていて、車での通行は基本的に禁止されている。

右岸道路

以前、新釧路川左岸の道路を走った様子をご紹介したが、今回走ったのは右岸。

舗装されていない道路が、湿原の中をどこまでも続いている。

この道路は、釧路湿原が国立公園になる前に、釧路から弟子屈方面に通じる道路として作られたものだが、

後に湿原の周辺部を迂回する道が作られて、車はそちらを通行するようになった。

このため、現在この道路は、一部を除いて車の通行が禁止されている。

湿原展望台を望む

私も、釧路に7年間暮らしたが、この道をジョギングで走るのは、今回が初めて。

どんな風景が見られるのか楽しみだった。

しかし、かなりの距離を走っても、風景はあまり変わらない。

左手の方向、遠くの丘の上には、釧路市の湿原展望台が見えた。

湿原展望台に設置してある望遠鏡で見れば、私の走っている姿が見えるはずだが、果たして、湿原の中に生息する動物ならぬ、湿原を走る人間を見た人がいたかどうか。

湿原・蛇行する川

しばらく走ると、左手に蛇行する川が見えてきた。

これぞ、湿原の風景だが、水量はそれほど多いようには見えない。

さけます捕獲場

更に奥に向かって走ってゆくと、新釧路川左岸のサケマス捕獲場が見えてきた。

人工増殖のサケの捕獲では、北海道内でも有数の実績を誇っているという。

作業員の宿舎、作業用の電源のための電線が、ここまで引かれている。

まだ、作業の気配は感じられなかった。

パノラマ写真

更に湿原の奥に向かって走って行った。

このあたりで、走り出してからおよそ7キロ。

しかし、風景はそれほど変わらない。

途中、一台の車が私を追い越し、しばらくすると、また戻ってきて私の横を通り過ぎて行った。

ガソリンスタンドの配達用の車だった。

この少し先に家が建っていたので、そこに灯油でも配達したのだろうと想像した。

夏の雲

釧路には珍しく、青空に夏雲が湧き上がっているのが見えた。

いくら走っても景色があまり変わらないので、このあたりで引き返すことにした。


北海道開拓の先人たちは、暮らしを豊かにしようと、これまで釧路湿原に様々な手を加えてきた。

湿原の蛇行する流れをせき止め、新たに直線的な新釧路川を海まで掘削したのは、洪水から暮らしを守るためだった。

湿原に流れ込む中小河川を改修して牧草地を造成したのは、大規模な酪農経営を実現するためだった。

そして、時の流れの中、釧路湿原の価値が広く認識されるようになるとともに、他方では湿原の草地化の難しさに直面することにもなる。
一部で、土地改良がうまくゆかなかったのだ。

そこで現在では、改修した河川の一部を、元の蛇行した姿に復元する工事も行われているという。


こうして、湿原を走ってみると、これまで遠くから見てきた釧路湿原の現在の「素顔」が見えたような気がした。

湿原は、私が思っていた以上に乾燥している印象だ。

はたして、「釧路湿原国立公園」に相応しい「潤い」がまだ残されているのかどうか、

多少、心配しながら、翌日、酷暑の東京に戻ってきたのだった。



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「ホテルローヤル」の風景


「ホテルローヤル」

直木賞を受賞した「ホテルローヤル」が釧路でも売れている。

知りあいの一人は、本屋の店頭では売れ切れだったので、ネットで注文したとのこと。

全国でも40万分以上が売れるベストセラーになっていると、先日のニュースで伝えられた。

サイン会の案内

私が本を購入した時、本屋さんには「サイン会」のお知らせも掲示されていた。

桜木さんは釧路市出身で、本のタイトル「ホテルローヤル」はお父さんが経営していたというラブホテルの名前。

作品は「ホテルローヤル」を舞台にした、何組かの男女の人間模様を描いた短編集。

サイン会が開かれたその日には、夜7時の全国ニュースの企画でも紹介され、

著者の桜木志乃さんは「地元にこだわり、必死に生きている人たちの姿を描いていきたい」と話していた。

湿原沿いの国道

釧路の市街地から少し離れた高台に、大規模な霊園がある。

8月のお盆の墓参りに出かけた時に、地元の縁者に、「ホテルローヤル」の場所はこの辺りではないの?と尋ねると、この辺りだとの答え。

道路から、高台の方を見ると、「ホテルローヤル」とは違うラブホテルの建物が見える。

いずれの建物も、道路を隔てて前方を見ると湿原が広がっているというシチュエーション。

作品で紹介される「ホテルローヤル」の景色とよく似ている。

しかし、以前、この近くにあったという「ホテルローヤル」の建物は、すでになくなっていた。

北中の校舎

釧路市北中学校は、桜木さんの母校。

校舎の窓には、後輩の中学生たちが作ったというお祝いの言葉が飾られていた。

後輩たちにとっても名誉なことだろうと思った反面、

この作品を読んだ生徒は、どれくらいいるのだろうと思った。

短編集

もしかすると、中学生には「刺激が強すぎるかも」との思いがよぎったのだ。

「でも待てよ、自分も”青の時代”には、それこそ猥雑なものも含め、様々な作品を乱読したではないか」と思い直す。

文学からは、人間の馬鹿さ加減、お粗末さ、悲しさ、そして愛おしさなどをいろいろと教えてもらったと同時に、

人生勉強をさせてもらったことも間違いない。

小雨の釧路市内

霧雨につつまれる、真夏の釧路の町。

きっと、後輩の中学生も、私と同じように

「この北の街にも、人間の数だけ物語がある」のだと、感じ取ることだろう。

北海道の道路を走るのは「命がけ」


白糠駅

この日は、少し長距離を走ろうと、JRのローカル線に乗って、釧路の西隣りの町・白糠町の白糠駅まで行った。

私の出発地の最寄駅である新富士駅から白糠駅まで、距離は約24キロある。

白糠駅から、太平洋沿いの国道を、釧路まで走って帰ろうという計画だ。

こんな看板が

白糠駅前には、全国的に名前が知られる焼酎の「鍛高譚(たんたかたん)」の看板が建っていた。

鍛高とは白糠の地名で、譚とは「物語」という意味だから「鍛高の物語」とでもいう意味だ。

鍛高在住の町民が自家栽培のシソを原料に焼酎を作っていて、それを製品化できないかとメーカーに声をかけたのが、製品化のきっかけになったというところからきている。

白糠港

右手に太平洋を見ながら走り出すと、すぐに白糠港が見えてくる。

今年は、沖合を回遊するサケ・「トキシラズ」の定置網に、クロマグロが例年にないほど獲れてるという。

沖合の海水温が、例年より高いためとのことだ。

原半左エ門

白糠町役場の近く、厳島神社の入り口に、「原半左衛門 縁の地」と書かれた碑が建っている。

原半左衛門とは、将軍の護衛として、甲州街道や日光東照宮の警備にあたる「八王子千人同心」の頭のひとり。

八王子千人同心は、同心100人で一組。
それが10組からなっていて、原半左衛門は頭10人のうちの一人だった。

寛政12年(1800)3月、原半左衛門は、蝦夷地の交通要所の警備と開拓のため、八王子を出発。

一行130人のうち半数は弟とともに勇払に、原半左衛門たち65人は白糠に入った。

同じ年の5月21日、日本地図を作るため蝦夷地に入っていた伊能忠敬がシラヌカに泊まり、その宿に八王子同心が訪ねたという記録が残っているという。

しかし、蝦夷地は酷寒の地だったため、犠牲者が出るなど困難を極め、原半左衛門は数年後に、この地を離れている。

右手は海

しばらく海岸沿いを走っていると、堤防に腰掛け、海を見つめている少年がいた。

「絵になるなあ」と思い写真を撮ったが、左に意味不明な看板が建っている。

「無料 波あります」と書いてある。

皆さんは、この看板の意味がわかるでしょうか。

しばらく考えていたら、その意味が分かった。

写真には写っていないが、この左側に、この少年の母親とみられる人が乗った車が駐車していた。

つまり、ここは無料の駐車場で、時折、波が車の近くまで来ますよ、ということのようだ。

恋問橋

北海道の地名には、アイヌ語由来のものに漢字をあてて、ロマンチックなイメージになったものが少なくない。

この「恋問橋」も、その一つ。

「コイトイ」とは、「風や波がある時に、ここまで波の来る所」という意味で、道内にはほかにも同じ地名がいくつかあるとのこと。

ここから、安全な歩道がない

ところが、この恋問の付近は、原野を切り開いて道路を作ったところで、あたりに人家はない。

そのためか、道路には車道より一段高くなった歩道がないうえ、歩道の幅も狭い。

歩行者やジョガーは、白線の右側の狭いところを通らなければならない。

しかも、通過する車は、すごいスピードで走りぬけてゆく。

大型トラックとすれ違う時は、帽子を押さえて飛ばされないようにするが、帽子どころか体全体が飛ばされそうになる。

ここでは、安心できる歩道が「ない」状態で5キロ近く走ったが、こうした道路はここだけではない。

道東では、主要都市間を結ぶ幹線道路をはじめ、地方の道路も、安全な歩道の付いた道はほとんどない。

今の財政状況では、主な道路に歩道を作るというのは、優先順位からするとそれほど高くはないのだろうが、自らの足で国土を体感するために、歩道がもっとあると、うれしいのだが。

人家のあるところまで歩道はなかった

釧路市の入り口である大楽毛(おたのしけ)で、国道から別れた。

道路沿いに、幼木が植樹されていた。

木の名前は「チシマザクラ」。

千島地方に自生していたことに、その名の由来があるという。

道東で桜といえば、ソメイヨシノではなく、エゾヤマザクラやチシマザクラ。

厚岸町の子野日(ねのひ)公園で行われる「桜まつり」は、毎年5月下旬。

日本で一番遅い花見として知られている。

こうして、北海道らしい桜が増えることで、桜の時期は、本州とは違った春の風景を見せてくれることだろう。

今年の夏は「釧路」が一段と目立つ


海難物故者慰霊碑

釧路市の東隣り・釧路町の「シレパ岬」に建つ海難物故者供養塔。

供養塔は岬の先端近く、太平洋に向いて建っているが、この日も濃い霧に覆われ、文字もよく見えない。

今年は例年にない猛暑が全国的に続き、四国の四万十市では40度以上を記録した日が4日も続くという大変な夏になっている。

その中で、釧路だけは、今年も最高気温が20度台前半の日が続いている。

週間天気予報でも「今後1週間は、釧路をのぞいて全国的に猛暑が続きそうです」とのコメントが続いている。

そんな気象予報士のコメントは、釧路の冷涼な夏を、かなりPRしたのに違いないと思う。

ローソク岩

釧路・道東を涼しくしているのは、夏に多く発生する「霧」。

太平洋高気圧から吹き出す南風が、釧路沖をながれる寒流(親潮)などの上を通ることで冷やされ、霧が発生。

それが海岸部に流れ込んでくるのだ。

霧の中の海難で命を失った人も少なくないが、

この霧は北海道に入植して農業開拓を志した多くの人たちの夢をも打ち砕いてきた。

シレパ岬の観光名所・ローソク岩のてっぺんには、鳥居が建っている。

この地の厳しい自然と闘ってきた人たちの、思いが込められているのだろう。

鳥取県士族入植の地

釧路市内に「鳥取」という地名がある。

鳥取県士族の人たちが、北の大地での豊かな暮らしを夢見て、入植したところだ。

ところが、この地ではコメは作れない。

夏場でも生えるのは草だけだから、牛を飼っての酪農でしか農業を続けることはできなかった。

多くの人は、夢破れてこの地を離れていった。

香川県から入植した人は、この地で讃岐三白と呼ばれる「砂糖、塩、綿」の栽培を夢見て、故郷から重い「ひき臼」を運んできたのだが、ひき臼が自らの墓石になっている話を以前紹介した。(2012年8月2日「恨みのひき臼」)

つぶれた飲食街

釧路では、人口の減少が進んで元気がない。

昔20万人を超えていたものが、周辺自治体を合併しても18万人しかいない。

釧路市でも、この霧と涼しさを生かして「町おこし」をしようと力を入れている。

「長期滞在」の呼びかけだ。

しかし、またまだブームを起こすほどの大きな反応はないようだ。

街を包む霧

地球温暖化の影響だろうか、北海道をめぐる農業環境は、このところ大きく変わってきている。

一昔前は、「北海道産のコメ」といえば「まずいコメ」の代名詞であったのだが、今は違う。

食味が、コシヒカリに負けない北海道産のコメが、「きらら」、「ほしのゆめ」、「ななつぼし」など、続出している。

これは、品種改良の成果もあるだろうが、気候の温暖化も幾分は関係しているのかもしれない。

天然冷蔵庫

その中で道東の沿岸部では、現在でも「コメの作付」は一切ない。

開拓者を泣かせ続けてきた「霧」が、現在も街を包んでいるからだ。

その霧が、「街の活性化」に大きな役割を果たす日は、果たして来るのかどうか、気になるところだ。

霧が町に活気を与え、「名誉挽回」する日が来ることを願っている。

世界最大級の木造船~掃海艦

港祭りの岸壁で

8月、「みなと祭り」が開かれていた釧路港に、2隻の大型船が停泊していた。

左側に見える白い船体は、釧路海上保安部に所属する巡視船「そうや」、手前の船は海上自衛隊の掃海艦「つしま」。

いずれも、祭りに合わせて、一般に公開された。

掃海艦つしま

これは、掃海艦「つしま」を正面から見たもの。

排水量は1000トン、全長は67メートルもある大きな船だ。

金属で出来ているように見えるが、実は木造船なのだという。

機雷の掃除

海中にあって、触れると爆発する機雷は、船の磁気や、スクリューの音などに反応して爆発する。

このため、機雷を処理・掃除する掃海艦の船体は、一般的に木や繊維強化プラスチック(FRP)などからできている。

「つしま」は、磁気反応型機雷を避けるために木で出来ていて、
木造としては世界最大級の船舶とのこと。

木造と聞くと、その能力は低そうに思ってしまうが、「世界でも最高レベルの掃海部隊として維持されてきている」と書いた記事もあった。

模擬機雷

これは、訓練などで使う模擬機雷。

機雷を駆除するには、磁気を発生させたり音波を出したりして、海中に潜む機雷を爆破するのだが、

このオレンジの模擬機雷は、磁気に反応せず、処理が難しいのだという。

いたちごっこのように、新手の機雷が現れるので、処理も大変のようだ。

ペルシャ湾での訓練に参加

船内には、2012年10月にペルシャ湾で行われた国際掃海訓練に参加した際の写真が飾られていた。

ペルシャ湾は、石油を海外に頼る日本の生命線であるとも言われる。

そのペルシャ湾では、1991年、湾岸戦争時にイラクが敷設した機雷の除去の際にも、自衛隊の掃海艦が参加している。

離艦心得

そんな説明を聞きながら、船内を見学していると、こんなプレートが目に入った。

「総員離艦安全守則」

つまり、機雷が爆発して、沈没する危険もあるということだ。

この艦の乗員たちは、危険な環境下で任務に従事するのだということが、私にはリアルに伝わってきた。

「水中爆発、およびサメには注意せよ」とあるが、実際にそんな場面に遭遇したことを想像すると、恐ろしい。


そして、そうした任務に従事する人たちがいる背景には、

争いや戦争が絶えることのないという「世界の現実」があるということだ。


掃海艦のプレートに、そんな現実の一端を垣間見て、いろいろと考えさせられた。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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