伝統のブランド力


先月は、食べ物の管理が不十分で食中毒になり、生まれて初めての入院生活を体験することになった。

原因は、調理した料理を冷蔵庫にしまわず、しばらく食卓の上に放置していたこと。

食べた瞬間、「これは危ないかも」と思ったものの、体力というより内臓の消化力を過信したためゴックンと飲み込んでしまった。

4日後に強烈な食中毒症状が出て、病院へ。

1週間入院し、点滴、おかゆ生活を続けて退院するも、体調は完全に回復せず、元に戻るまで、ほぼ1か月もかかってしまった。

結局、丸一か月間走ることができず、足の筋肉はみるみるしぼんでしまい、最近では10キロを歩くようにして走るのが精いっぱい。

このため、走りながら写真を撮ることもなく、ブログの更新をすることもできず、残念な日々を送ることになってしまった。

皆さんも、どうぞ食中毒には、くれぐれもご注意ください。

まだ食欲もなく、今は、食べる楽しみが戻る日を楽しみに待っているという状態。

そこで、今回は、入院する前に「歌舞伎座」で出会った「食べ物」について書いてみたい。

幕の内弁当

歌舞伎座での楽しみの一つは、「幕間(まくあい)」に食べる幕の内弁当。

「幕の内弁当」という名前の由来は、”芝居の幕間・幕の内に観客が食べるもの”との説が有力といわれる。

中身はこんな具合

歌舞伎座の幕の内弁当の中身はこんな具合。

取り立てて特徴もなく、外観はごく普通だ。

カロリーも高そうではなく、ある年齢になれば、こちらの方が親しみを感じさせる。

こんな蒲鉾が

そして、左上のおかずを食べていくと、たまご焼きと焼き魚のあいだから、当初は見えなかったこんな練り物が姿を現した。

歌舞伎座の定式幕

歌舞伎座の定式幕を模した「かまぼこ」だ。

黒、柿、もえぎの3色で出来ている。

こんなものが出てくると、「これぞ幕の内弁当」とうれしくなってしまう。

こんな色の組み合わせも、歌舞伎という伝統文化が培ってきたブランドなのだと思う。

何も言わなくても、歌舞伎の色だとわかるところが凄い。

あんぱん

そしてこれは、以前「歌舞伎座の土産」として、知人からいただいた「あんぱん」。

中にあんこが入っている普通のあんぱんだが、歌舞伎の隈取風の絵がついてるので、特別なあんぱんに見えてくる。

「食べるのがもったいない」、そう思うほどうれしい「いただきもの」だった。

アンがたくさん入っていておいしいあんぱんだったが、それ以上に「記憶に残る」あんぱんとなった。

この時にも「歌舞伎という伝統の持つブランド力はすごい」と感じたのだった。

さて、これから暑い日が続きます。
どうぞ、健康には十分ご注意ください。

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歌舞伎の力・作者の力~河内山宗俊

新橋演舞場

新橋演舞場で、2代目中村吉右衛門の歌舞伎を見る機会があった。

実の祖父で、初代吉右衛門の芸を次世代に伝えようと言う「秀山祭」(秀山とは、初代の俳名)の公演があったのだ。

演目

昼の部の演目は、この二つ。

「寺子屋」は、命を狙われる菅原道真の子の身代わりとして、我が子を犠牲にした「松王丸」の物語。

松王丸役の吉右衛門の名演に、私の周りの席の観客は皆ハンカチで涙を拭い、私も涙が止まらなかった。

もう一つは、「河内山」。

悪人ながら、どこか憎めない人物が主人公。

作者は河竹黙阿弥、「白波五人男」「三人吉三」と同じ系統の話で、七五調の名文句が心地いい。

この主人公は実在の人物がモデルで、その墓が都内にあり、以前訪ねたことがあった。

高徳寺

港区北青山にある浄土宗「高徳寺」。

秩父宮ラグビー場から近いところにある。

河内山宗俊の碑

境内に入ってまもなく、右手に「河内山宗俊之碑」と書かれた大きな石碑が建っている。

河内山宗俊とは歌舞伎上の名前で実名は「河内山宗春」という。
一体どんな人物なのか、ウィキペディアには、こう書いてある。

「宗春(生年不明~文政6・1823)は江戸出身で、11代将軍徳川家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主であった。
表坊主とは若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。
文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。
やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請(ゆす)り取るようになった。
巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。
文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死」

さて、それでは歌舞伎のあらすじはどのようなものだろうか。

河内山あらすじ

歌舞伎のあらすじはこんな具合だが、

河内山が北村大膳に、江戸城内で以前顔を見られていたことから正体を見破られる。

その時の「とんだところへ北村大膳」を含む長台詞は、小気味がよく痛快でもある。

ウィキペディアには、死後の河内山について

「河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。
しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった」と書かれている。

そして、河内山をヒーローにするうえで大きな力を果たしたのは、この歌舞伎という芸と、その作者の河竹黙阿弥なのだろう。

「河内山宗俊之碑」の裏側には、中村吉右衛門(初代)、守田勘弥の名前が掘られていて、大正11年の河内山の百回忌に建てられたことがわかる。

舞台

そして、それからさらに100年。

河内山を主人公にした歌舞伎は、今も名優たちによって演じられ人々の心の中に生き続けてゆく。

いわば江戸時代の小悪人、

なのに、あれほど立派な碑が立っているとは。

歌舞伎の力・影響力は、すごいものだと思う。


め組の喧嘩~再び平成中村座へ

平成中村座へ

4月に続いて、再び平成中村座で観劇することができた。

平成中村座の今回の公演は、「祝東京スカイツリー開業記念 江戸のこころ・大浅草観光祭」の一環として去年11月からのロングランだったが、いよいよこの5月27日で千秋楽を迎えた。

演目は

5月の昼の部の演目が、私も氏子である芝大神宮(神明神社)で、江戸時代に実際に起きた事件をもとに作られた「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」、通称「め組の喧嘩」ということで、観劇することになったわけだ。

ファイナルは「め組の喧嘩」

隅田川沿いに建てられた小屋の入り口では、「め組」の纏(まとい)が、お客さんたちを迎えていた。

「め組の喧嘩」の話は、一言でいえば、神明神社周辺を含めた「芝」が持ち場の火消し鳶「め組」と、相撲取りとの喧嘩の話。

実際の話は、神明神社の境内で行われていた相撲の興行に、地元「め組」の者は木戸御免だったのだが、連れの者も顔パスで入ろうとして相撲取りといさかいになったのが喧嘩の発端。

神明神社の関係者

この演目の上演に際しては、出演者が神明様(芝大神宮)に参拝するのが恒例になっていて、勘三郎さんたちが先月、神社にお参りに訪れている。

そして、千秋楽の前日に、神社の宮司さんをはじめ氏子の人たちが、半纏などを着て観劇に訪れたというわけだ。

め組の半纏を着た人も

また、客席には「め組」の印半纏を着込んだ人の姿も目立った。

配役

主人公の、め組の辰五郎は中村勘三郎、相撲取りの「四ツ車大八」は中村橋之助が演じる。

歌舞伎の第一幕は、品川宿の「島崎楼」。

お抱えの武士に連れられた相撲取りが、あたりをはばからず騒ぐ姿に、め組の男が腹を立てて部屋に乗り込む所からはじまる。

そして、帯刀を許された相撲取りが「力士と鳶では身分が違う」と話すことから、いさかいが深まってゆく。

花道はめ組の連中が走り回る

この花道を、はしごや手鉤を持った「め組」の男たちが勢いよく走り、派手な立ち回りを見せる。

舞台の結末は、辰五郎が恩義を感じている男の仲裁によって喧嘩が収まるのだが・・。

実話では、火消を裁く町奉行、相撲取りの寺社奉行、それに勘定奉行も加わっての裁きとなり、「め組」は2人が江戸追放、相撲取りは1人が江戸払いと、若干「め組」に厳しい裁きだったという。

ウィキペディアによれば、火の見やぐらの早鐘を私闘のために使用したことを重く見たことがその理由の一つということだ。

そして、火の見櫓の半鐘も島流しになっているというのが、この裁きの面白いところで、

島流しになった半鐘は、明治になってから神社に戻っている。

舞台の裏側は隅田川

芝居が終わっていったん幕が下り、再び幕が上がると、舞台の後ろの隅田川が客席から見通せた。

撮影はできないので、幕間に撮ったこの写真で想像してもらいたいが、観客からは「おーっ」という声も聞かれた。

そして中村勘三郎さんから、「め組」の人に加えて、観劇に来ていた伊勢の海部屋の「四ツ車」さんが紹介された。

「四ツ車」という四股名は由緒ある四股名で、現在の「四ツ車」は八代目で、これまでの最高位は西十両の8枚目、現在は幕下のお相撲さんだ。

勘三郎さんの「どうか、今日はこの後、喧嘩しないように」とのコメントが客席の笑いを誘っていた。

はねた後の浅草の街

芝居がはねた後、雷門の方に向かって歩く人の波に「め組の印半纏」が見える。

江戸情緒豊かな光景だった。



プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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