「火の用心」の声が町内に響く

恒例「町会の夜警」

今年の冬も、「火の用心」を呼びかける元気な声が、芝新堀町内に響き渡った。

毎年、厳冬期に入る12月末から2月にかけて、「防犯・防火」を呼びかける町会の夜警活動が行われている。

夜8時から9時の間に、2つの家庭がペアとなって、町内を巡回してくる。

子供の声はよく通る

大人だけでなく、子供たちも巡回に参加している。

子供の声はよく通る。

そして、その声から、楽しそうな様子が伝わってくる。

私を含めた町内の大人たちは皆、「ご苦労さん、頑張ってね」と、子供たちの巡回を見送る。

子供たちにとっても、きっといい思い出になるに違いない。

女性の参加も多い

昔は、夜警に参加するのは男性と相場が決まっていたが、最近は女性の参加も多い。

防寒対策も万全、
カメラを向けるとご覧のポーズで応えてくれた。

期間は真冬の2か月間

町内をの隅々まで巡回して、所要時間は30分余りだろうか。

拍子木を叩き、スピーカーで「防火・防犯」を呼びかけて巡回すると、あっという間だ。

新堀町の隣り町・西応寺町にある「西応寺」は、江戸末期にオランダ公使館が置かれたところ。

今もこのあたりには、外国人が多く住み、祭りや餅つきなどの行事には多くの外国人が参加している。

今年の「夜警日割り表」には、オランダ大使館員の名前もあり、その雄姿を撮影しようと思っていたが、急遽日程が変更になり、残念ながら今年は撮影できなかった。

町内の隅々まで回る

町内に高層のマンションも増えてきた。

通りに出れば、大きなビルだらけ、町内の家並は昔とはずいぶんと違ってきている。

巡回の当番名簿を見ると、町内に暮らす人だけでなく、町内にビルがある銀行の人たちも参加していた。

災害時のことを考えると、マンションに住む人たちの参加が増えると、もっといいのだが。

タワーのライトアップ

私が巡回当番の夜、町内を一巡したあと東京タワーを見ると、色鮮やかなライトアップが目に入った。

調べると、スイスとの国交樹立150周年記念をテーマにした照明とのことだ。

「赤地に白十字」のスイス国旗をイメージしたものらしい。


ソチ五輪が始まってからは、五輪カラーをイメージしたライトアップが寒空に輝いている。

今年は、都内でも雪が多く降り、寒い日が続いていて、まだまだ火が恋しい日が続きそう。

皆さんも、どうぞ火の取り扱いにご注意ください。

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「3丁目の夕日」の歳末、今どこへ

築地場外市場

年末の3日間は、東京の台所「築地市場」周辺を走った。

今年の流行語の一つ「お・も・て・な・し」と書かれた看板が、買い物客を迎えていた。

看板の右手には、築地市場が豊洲に移転しても、場外市場は築地に残ることが記されていた。

歩くのも困難

年に何十回となくこの付近を走るが、年末のこの時期は、やはり一年でも一番人出が多い。

市場の中の細い小路では、歩くのもままならないほどの混みよう。

「スリに注意」の看板を見て、「被害に遭う人もいるのかも」と思った。

正月の献立

正月料理の定番を書いた紙が、ずらりと並んでいた。

正月の食卓も、年々少しずつ変わってきている。

我が家でも、西洋料理のシェフが作ったおせち料理で新年を迎えた年もあった。

最近の家庭では、このうちのどれほどが正月の食卓に並ぶのだろう?

鰹節の量り売り

そして築地を歩き回る中、昔懐かしいと思う風景に出会った。

「量り売り」だ。

築地には、削り節の量り売りはこのお店の他にもあるが、今では全国のほとんどの家庭でパック入りのものを使っているのに違いない。

そういえば昔は、鰹節だけでなく、味噌も量り売りだった。

しょうゆも瓶を手にして、近くの商店街に買いに行ったこともあった。

そんなことを思い出しながら、「3丁目の夕日」の頃の昔の地元商店街の様子を思い浮かべていた。

東京タワーができた頃、今から半世紀前の「私のふるさとの商店街」には、暮らしに必要なものを扱う商店がすべて揃っていた。

だから、年末のこの時期、商店街は活気にあふれていた。

歳末大売り出しでは、福引を引く人達が列を作っていた。

しかし今、当時あった時計屋、写真屋、卵屋といったお店は、今では商店街から姿を消してしまった。

電器屋さん、床屋さんも、ずいぶん少なくなってしまった。

そして、あの頃はまだ内湯は十分普及していなかったから、周辺には銭湯も随分あった。

湯船で泳いだり潜ったりと、子供には楽しい遊び場でもあったが、こちらも今はない。

地元商店街

この半世紀で、付近はオフィス街として、すっかり姿を変えてきた。

この「通り」の両側には様々なお店が並び、同級生の薬局もあったし、ガラス屋さんもあったが、今はない。

この通りでは、昔は「縁日」が月に3回、2の日に開かれていて、にぎやかだった。

綿あめ、カルメ焼きなどの露店の他

ガマの油売り、火事で工場が焼け退職金代わりにもらったという万年筆を売るといった「寅さん」たちの啖呵売が楽しかった。

ガマの油売りでは、最前列で見物していた小学生の私が実験台にされるということもあった。

万能の秘薬軟膏を手の甲に塗られ、そのあとで針を手の甲に刺されたのだが、「少しも痛さを感じない」というものだ。

確かに痛くはなかったことを覚えているが、そのからくりは今も分からない。

そんな昔の賑わいは、今、見ることはなくなった。

平日の日中は、サラリーマンがあふれる街に変わった。

土日は、ほんとうに静かな町になったし、年末も自然豊かな田舎に負けないくらい静かだ。

2013年もあとわずか

年末の東京タワーのライトアップ。

つい先日、商店街では「暮らしの用品」を扱うお店が営業を閉じた。

この1年、街は、また少し、その姿を変えた。

2013年も、間もなく終わろうとしている。

港区東麻布の「かかしまつり」

東麻布

港区東麻布で「かかしまつり」が開かれた。

今年で39回を数えるから、今ではすっかり恒例行事となっている。

この写真は、赤羽橋交差点から飯倉の方を写している。

右手に東京タワー、真ん中の道路は国道一号線。

画面で、一号線の左手の地域が東麻布になる。

入り口に大きな案山子

10月5日昼過ぎ、東麻布商店会のある「麻布いーすと通り」の入り口では、LEDライトで飾られた大きなカカシの設置作業が行われていた。

日曜日までの2日間、歩行者天国にして「かかしまつり」が開かれる。

舗道にも案山子

舗道には、カカシをデザインしたプレートが埋め込まれていた。

秋になると「かかしコンクール」は全国各地で開かれていて、特に山形県の上山市で開かれている「上山 全国かかしコンクール」がよく知られている。

大体は農業地域で開かれることが多いようだ。

だが、東京都内でも開くところがある。

江東区では「深川かかしコンクール」が開かれているが、今年で16回目なのに対して、こちら東麻布では今年で39回を数える。

かかしコンクール

ここは「かかしコンクール」の展示場。

「何故、ここ麻布で”かかし祭り”なのですか?」と祭りの本部で尋ねてみた。

年配の方が

「昔、このあたりには地方出身者が多く暮らしていたので、カカシを見て故郷のことを思い出してもらおうとはじまった」と答えてくれた。

更に、東麻布の小学校と山形県舟形町の小学校とは、以前から交流が続いているが、それは、舟形町出身者がこの町に暮らしていたことから生まれた縁だと教えてくれた。

縄文の女神

そんなことから、毎年このまつりには、舟形町の人がやってきて、「芋煮」や物産を売る店を出している。

店には、舟形町で発掘された土偶「縄文の女神」が飾られていた。

女性の全身立像で実物は高さ45センチだが、

この像は、5倍の225センチにに拡大してある。

平成24年、国宝に指定された。

ニュースを題材に

コンクールに出品された作品は、ニュースに題材をとったものが多かった。

東京オリンピック決定、海女ちゃん、”今でしょ”の林先生、等々。

地元キャラクター

最近の「ゆるキャラ」ブームを反映してか、地元で生まれたキャラクターもあった。

「消防署」、「学童クラブ」のマスコットキャラクターだ。

家族連れでにぎわう会場

日曜日の夜、会場は親子連れなどで、かなりの混みようだった。

この祭りが始まった昭和50年当時と比べると、街並みは大きく変わっている。

しかしそれ以上に変わったと思われるのは、訪れる人。

故郷を懐かしがる旧世代の人よりも、この街で生まれただろう新世代の人が多いようだ。

都心のカカシ

商店街の入り口に立つ、LEDのカカシ。

かかしに郷愁を感じる世代が減ってゆく中、

都会の子供たちにとって、このまつりはどんな祭りなのだろう。

ひょっとすると、ニュースに題材をとった「ゆるキャラ祭り」とでも思っているのかもしれない。




お祭り~旧町名が復活する日


芝大神宮の秋祭り
今年も秋祭りの季節を迎えた。

氏神様の芝大神宮、通称「神明様」の祭りのクライマックスである宮神輿の巡幸が、9月15日に行われた。

台風18号が接近する中、朝方に行われた神輿の宮出しでは、一時期猛烈な雨に見舞われたが、その後は晴れ間も広がる天気となった。

昼過ぎのこの時間、宮神輿は各町内を巡幸しているせいか、境内に人影は少ない。

台風接近の影響もあったのかもしれない。

まつり期間は旧町名が復活する

祭りの案内には、全部で24の氏子町名が書いてある。

北は新橋から南は西応寺(オランダ公使館が初めて置かれた)、西は麻布十番に至る広い地域にまたがる。

氏子町内として書かれている町名の中で、現在も住居表示で使われている町名は殆んどない。

僅かに、新橋、浜松町、大門、芝公園、東麻布といった町名は、今も使われているが、その他の町名については、地図から姿を消してしまった。

ところが、姿を消してしまった町名が、祭りの期間だけ復活する。

新堀町会のお神酒所

私の住む地区の町会は新堀町会。

住居表示が「芝2丁目、3丁目」と変わるまでは、芝新堀町といった。

お神酒所には新堀町と染め抜いた幕が飾られ、その雰囲気は昔と少しも変わらない。

町会員からの寄付の受け付けや祭りの準備に忙しい。

宮神輿の御旅所

9月15日の「宮神輿」の巡幸では、御旅所が2か所に設けられた。

東の御旅所は、JR浜松町駅に近い高層ビルの敷地内。

祭りの景色は、私が子供の頃と比べると大きく変わった。

昔は、神輿は木造の家並をぬうようにして担がれたものだった。

今は、ビルの谷間を通ってゆく。

露月待ちなど

祭り半纏の背中に書かれた町会名を見ても、それがどのあたりにある町会なのかよくわからない。

私でさえそうなのだから、若い連中には皆目わからないだろう。

「露月町」をネットで調べてみると

”「露月町(ろうげつちょう)」は、現在の新橋5丁目付近、以前は日比谷にあった老月町が移転してきた町。遠山金四郎の屋敷は、近くにあった”

と、書かれていた。

この説明から、露月町の人が、地名に強い誇りと愛着を持っているだろうことは、容易に想像できる。

江戸っ子ゆかりの地として、昔から「芝で生まれて神田で育つ」といわれるように、「神田と芝」がよく知られる。

共に、町人の地として、歴史と結びついた沢山の町名が伝えられてきた。

その後、郵便物の配達に便利なようにと新しい住居表示が施行される中で、歴史的な地名は全国各地で姿を消していった。

芝も歴史的地名の多くを失ったが、一方の神田は、多くの地名を今も残していて、対照的だ。

その背景には、神田の人たちが、地名に深い愛着とこだわりを持っていたことを想像させる。

私にしてみれば、郵便番号の普及と、機械による仕分け等で、旧来の地名を残したままでもよかったのではないかと思うのだが。

もう、元に戻すことはできないのだろうか。

金杉橋の上

金杉橋の上で、太鼓グループによる協賛の演奏が行われていた。

私も、一時期、太鼓の手ほどきを受けたことのある団体だ。
元気な演奏で宮神輿を出迎えていた。

金杉という地名も、今はこの橋だけに残っていて、現在、金杉町は芝1丁目に代わっている。

神輿が町内に入ってきた

宮神輿が「新堀町」に入ってきた。

町内では、町内に住む人が中心となって神輿を担ぐことになっている。

我が町会は、婦人部が元気。
見ていても頼もしい。

遺影に神輿を見せて

そして、沿道では、今年の祭りの前に亡くなった前町会長の写真がかかげられていた。

「祭りに長い間関わってきた故人に、この神輿を見せてやりたい」という気持ちが、こちらにも伝わってくる。

若い人が仲間に入ってくる

他方、町内の若い人たちも、神輿を担ぐことで、町会の新しい仲間に入ってくる。

中学生・高校生も、大人に交じって元気な声を出して神輿を担いでいた。

外孫も祭りに参加

我が家の外孫も、神社の手拭いで作ったダボシャツを着て、今年が祭りの初参加。

こうして、祭りによって昔からの地域社会が若い世代へと受け継がれてゆく。

街が変わってゆく中で、人間同士のつながりが少しでも伝えられて行けばと思う。

「日本労働運動発祥の地」~港区・芝

発祥の地の碑

港区芝2丁目、日比谷道路沿いのビルの敷地に、「日本労働運動発祥之地」と書かれた碑が建っている。

友愛会館の敷地にある

碑があるのは、友愛会館と三田会館などの入ったビル。

日本における労働運動の源流である「友愛会」が、

この地に創立されてから100年になるのを記念して、

平成24年、労働団体などの出資を受けて改築された。

碑文

碑文には、次のように記されている。

『大正元年(1912)8月1日、

この地にあった基督教ユニテリアン教会「惟一館」において、鈴木文治ら15名が「友愛会」を創立し、

それ以来、我が国労働運動は継続して発展してきた。

この故を持って、ここは我が国労働運動発祥の地であり、労働運動の主流を形成してきたところである』

この友愛会館の8階には「友愛労働歴史館」があり、「日本労働運動の100年余~友愛会、総同盟(戦前)を中心とする」という常設展が開かれていて、だれでも見学することができる。

鈴木文治は東京大学を卒業後、新聞記者となり、貧民問題に取り組んで社会事業に携わるようになる。

そして、労働者の地位向上を目指して、「友愛会」を発足させたのだった。

また、鈴木文治はクリスチャンで、大正デモクラシーの代表的論客である吉野作造の同郷(宮城県)の後輩で、終生親しくしていたという。

ユニテリアン教会があった

そして、この地にあったユニテリアン教会「惟一館(いいつかん)とは、こんな建物であった。

この建物ができるまでには多くのひとたちの協力・支援、関与があったが、その中に慶応義塾の創立者・福沢諭吉と、

日本に西洋建築技術を伝えるとともに、多くの名建築を残したジョサイア・コンドルの名前もあった。

福沢諭吉が、きっかけを作った

福沢諭吉は、明治20年、ユニテリアン教会の牧師を招聘する。

ユニテリアン教会とは、ウィキペディアによれば

「三位一体の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称。

キリストを宗教指導者としては認めつつ、神としての超越性は否定」とある。

「惟一館」という名前は、その教理に由来しているのかもしれない。

そして労働歴史館の解説では、福沢と教会との関係について

”福沢が唱えた「独立自尊」が、ユニテリアンの「人間の尊厳、進歩と発達」と類似し、自由主義で通底していた”と書かれている。

そして明治27年、芝の現在地に「惟一館」が建設される。

このため、「福沢諭吉が、友愛会誕生のきっかけを作った」と労働歴史館の常設展で紹介されている。

ジョサイア・コンドル

そして、「ユニテリアン教会」を設計したのが、明治初期のお雇い外国人の1人、ジョサイア・コンドルだった。

コンドルは、三田綱町の「三井倶楽部」、丸の内の「三菱1号館」「鹿鳴館」など数多くの名建築を設計した人物。

教会はその後、昭和5年に土地と建物が「友愛会」によって買い取られ、翌6年に改築されて「日本労働会館」となる。

「日本労働運動の100年余~友愛会、総同盟(戦前)を中心とする」の中の説明では、

”そこでは、労働学校、実費診療所、労働者アパート、簡易食堂などを経営し、労働者教育、福祉、教育などを実践してきた”

ポスター

”「友愛会」は労組非合法の時代に「労働者の人格承認」を掲げ、労働者の支持を得て組織を拡大していった。

大正10年に、「総同盟」と改称。

昭和15年7月、自主解散”

と展示の中で紹介されている。

レンガの一部

コンドルが設計した建物を改築した「日本労働会館」は、昭和20年の東京山の手大空襲で焼失。

敷地の一部には、「惟一館」で使われていたレンガ塀の一部が、わずかに残されている。

「友愛労働歴史館」の展示の中には、「惟一館」を支え、関わった人たちとして、

新渡戸稲造、賀川豊彦、永井竜太郎、市川房江などといった著名な名前が登場する。


労働運動の紹介は、複雑で説明が難しいため、紹介がごく簡単になったが、

そのあたりの歴史に関心のある方は、どうぞ見学にお出かけください。

見学は、平日の10-17時、無料です。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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