「一筆啓上の城」再訪

丸岡城へ

今から2か月ほど前、姫路城マラソンで姫路城を訪れたあと、久しぶりに懐かしい北陸の城を再訪した。

現存する天守閣としては最古といわれる「丸岡城」だ。

福井市から金沢に通じる国道8号線を北上、福井市の隣町・坂井市にある。

織田信長が北陸の一向一揆を平定するため、柴田勝家の甥・柴田勝豊に、天正4年(1576)に築かせたと、由来が書かれてあった。

信長が本能寺の変で没する4年前のことだ。

現存天守では最古

石垣の組み方は「野面(のづら)積み」、

姫路城や江戸城などの石垣と比べると石は小さく、組み方も荒々しくて、古い歴史を感じさせる。

丸岡城は、明治の廃城令で「廃城処分」となり、明治34年に町有となった時には、天守閣と付近の石垣を残すだけとなっていた。

福井地震で崩れてしまった

昭和9年に、国宝(今でいう重文)に指定されたが、

昭和23年6月28日に起きた福井地震で倒壊してしまう。

地震の規模はマグにチュード7.1、

直下型の大地震で、福井平野では家屋の倒壊率が60パーセントを超えるなど多大な被害を出した地震だった。

地震から3年後、城の復元に着手する。

用材の80パーセント近くは、城に使われていた古材を利用した。

昭和30年に修理・復元を終えて、往時の姿を取り戻した。

今月14日、「平成28年熊本地震」が発生し、熊本県を中心に九州の広い範囲で大きな被害が出ている。

この中で、天下の名城・熊本城では石垣が崩れ、屋根瓦やしゃちほこも、ほとんどすべてが落下するなど甚大な被害を受けている。

あのオーバーハング状に石垣が組まれ、敵の侵入を許さない「武者返しの石垣」にも被害が出ているという。とても残念なことだ。

でも、この丸岡城の例もある。

きっと、いつの日か、元のように見事な姿をとりもどしてくれると思う。

急な階段

二重三階の天守は高さが22メートル、最上階へは階段この急な階段を上ってゆかなければならない。

垂直に近い勾配だから、横にあるロープを捕まらないと上り下りはつらい。

城中

城の内部の面積は1階が41.44坪で、2階と3階はそれぞれ12.1坪と、城としては小ぶりだ。

電気のない、黒光りする城中に身を置くと、戦乱の世に生きた武将たちのことがしのばれる。

”「命のやり取り」が日常だった時代に生まれなくてよかった”というのが、この暗闇の中で感じた思いだった。

本多重次

ところで、丸岡城といえば「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という、有名な手紙文を思い出す方も多いはず。

その手紙を書いたのは、この人。

徳川家康の重臣で「鬼の作左」と呼ばれた、本多作左衛門重次。

戦の中で数々の戦功をあげたほか、家康の次男でのちに初代越前藩主となった結城秀康の養育係も務めた。

家康は重次を終生重用し、頼りにしていたという。

本多成重

「お仙泣かすな」のお仙とは、重次の子の仙千代のこと。

のちの本多成重。

成重は家康の旗本として数々の戦に出陣、手柄を立てていたが、結城秀康の子で越前藩主となった忠直の家中でもめ事があった際に、家康によって忠直の家老として送り込まれる。

成重は、「大坂夏の陣」では真田幸村の陣を打ち破るなど数々の武功をあげた。

(きっと、この後の大河ドラマ「真田丸」の中で、真田幸村の敵役として登場してくることだろう)

成重は、主人・忠直の名を大いに上げ、初代の丸岡藩主となっている。

(ただ成重は忠直の乱行には手を焼き、忠直を厳しく諫めても聞き入れることはなかったと、解説に書かれていた。このあたりのことは、菊池寛の「忠直卿行状記」に書かれているはずだ。そして、丸岡藩・本多氏は成重から4代目の時に、お家騒動で領地没収となっている)

こんな縁があって、1993年・平成5年に、丸岡の町おこしにつなげようと「一筆啓上賞」が始まった。

日本一短い手紙のコンクールとして、20年を超える歴史を数えている。

日本一短い手紙

城の周囲には、これまでの「一筆啓上賞」の秀作が、パネルになって紹介されていた。

2014年のテーマは「花」。

親子が互いを思いやる作品など、ほろっとするものが多い。

先ほど、”「命のやり取り」が日常だった時代に生まれなくてよかった”と書いたが、

現代でも核戦争がいつ起こるかもしれないし、東海・南海をはじめ巨大地震はいつか来ると思っておかねばならない。

そして毎日、どこがで起きている”人身事故”、社会との折り合いをうまくできない人たちが自ら命を絶っている現実。

現代が、戦国の世より住みやすいかといえば、決してそうではないだろう。

つらいこと苦しいことは、なくなったわけでもなく、少なくなったわけでもない。

戦国の世と変わることはないのではと思ってしまう。

そんな中で、短い言葉で家族への愛を語る「一筆啓上賞」の作品は、ほのぼのと心に迫ってくる。

大賞
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姫路城へ

姫路城マラソンのTシャツ

播州赤穂から姫路に戻り、翌日のマラソンの受付を行った。

これは、参加賞のTシャツ。

このほかゼッケンやタイムを計るチップをもらったが、ひざの痛みが取れずチップはその場で返し、マラソンの棄権を申し出た。
残念。

夕闇迫る姫路城

受付を終えたころ、外は夕闇が迫っていた。

宿泊ホテルから自転車を借りてきたので、その足で姫路城の付近を散策することにした。

堀端に見えるのは白鷺

お堀端の木々の中に、何か白いものが見えた。

目を凝らしてよく見ると、どうやら鷺のようだった。

姫路城の別名は「白鷺城」。その呼び名はここからきているのかと思い調べてみると、

その由来にはいくつか説があり

○城漆喰で塗られた城壁の美しさ から

○ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから などとウィキペディアに書かれていた。

ライトアップの姫路城

姫路城は、昨年(2015年)「平成の修理」と呼ばれる「大天守保存修理工事」を終えたばかり。

鮮やかな白壁は、目にまばゆいばかり。
ライトアップに浮き上がる大天守はまことに美しい。

「白鷺城」の由来については、どちらの説も説得力があるなと思う。

この写真を撮っていると、「一緒に写真を撮ってあげましょうか」と声をかけてくれる人が。

浅草からやってきた車屋さん

いろいろ話をしていると、このお兄さんは

1年前には、浅草で車屋さんをやっていたという。

こちらに、人力車で案内をする人がいないので、こちらに移ってきたそうだ。

翌日のマラソン当日は、この近辺は交通規制で、姫路城に入る道順について、丁寧に教えてもらった。

浅草で仕事をしていた時は、浅草から六本木まで1時間半ほどで走ったというから、大変な健脚だ。

胸には「天下車屋」(てんかしゃや)との営業名が書かれていた。

「世界遺産の姫路城」を訪れる観光客に、精いっぱいのおもてなしを期待し、礼を言って別れた。

マラソンのスタート地点

翌朝、姫路城前のマラソンスタート地点。

間寛平ちゃんが応援団長として、ランナーを激励していた。

「エイ、エイ、オー」と、何回もときの声をあげていた。

姫路城内へ

ランナーを横目に、交通規制で込み合う市内を、遠回りしながら姫路城の中に入った。

歩兵第十連隊跡

入口のところに「歩兵第十連隊跡碑」があった。

明治初めの廃城令では、姫路城は陸軍省が軍用として使用する「存城処分」に区分された。

陸軍の第十連隊本部が置かれ、赤穂城のように主要な建造物か破壊されるということがなかった。

黒田官兵衛ゆかりの石垣

坂を上がってゆくと、まもなくこんな案内が見えてきた。

「官兵衛ゆかりの石垣」。

秀吉の軍師官兵衛は、1546年(天文15)姫路城に生まれた。

当時父の黒田職隆は小寺家の家老で、姫路城も今のような立派なものではなかった。

のちに黒田官兵衛(孝高)が、姫路城が立つ姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられるという。

黒田当時の姫路城石垣

その後、官兵衛は姫路城を秀吉に献上。

秀吉は、さらに近世城郭に改修したが

現在のような五重七階の連立式天守が完成するのは、関ケ原の合戦後の1609年(慶長14)、池田輝政が城主であった時代のことになる。

いざ城内へ

いよいよ、城内へ入ってゆく。

先を歩くおじさんは、今年79歳。

毎朝こうして場内を歩くとのことで、その足取りも軽い。

四季折々の写真を何組か持っていて、観光客にプレゼントしていた。

私も一組、いただいた。観光客をもてなそうという気持ちがうれしかった。

戦争下の姫路城

城内には、先の大戦中の珍しい写真が展示されていた。

空襲の目印にならないようにと、黒く擬装された「白鷺城」だ。

空襲の後、奇跡的に残る白鷺城

昭和20年7月3日、姫路は空襲を受け焼け野原となったが、姫路城は残った。

焼夷弾の直撃も受けたが、大きな被害を受けることはなかった。

まさに、奇跡的なことだった。

天守の最上層に神社

天守の最上層には神社があった。

姫路刑部(長壁)大神などを祀っている。

「火災・災害等にご霊験あらたかです」と書かれていた。

天守からスタート地点を見る

天守台の窓から、マラソンのスタート地点と、その先の姫路駅のほうを眺めてみた。

もうランナーの姿は見えなかった。

手前の城内では、親と子がペアになって走るイベントが開かれ、元気な声援が飛び交っていた。

帰り道、忍者がいた

天守から降り、坂道を下っていると、前方に忍者らしき人影を発見。

観光客に切り付け、観光客は「やられたー」と応じている。

もちろん、私も「やられたー」と忍者の一太刀を受けたのだった。

そして、家康の孫娘で、豊臣秀頼に嫁いだ千姫が、一時暮らしていたという西の丸へと向かった。

姫路城は、本当に大きく、美しい城だった。


鬼平犯科帳を歩く

「犯科帳を歩く」幟

墨田区内を走っていて、こんな幟と出会った。

”犯科帳を歩く 
 長谷川平蔵 すみだ ゆかりの地”

長谷川平蔵は、ご存知、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公。

そしてこの写真の右側に見えるお蕎麦屋さんの横に、こんな案内板が立っていた。

茶店「笹や」

「鬼平情景」というタイトルの下に  「弥勒寺門前 茶店 笹や」とあり、
こんなことが書かれている。

”(笹やは)平蔵が、放蕩無頼の日々をおくっていた頃をよく知る お熊ばあさんの店です。

今は七十を越えていますが、
若い頃は平蔵に毎日のように酒をのませ 泊めてやった きっぷの良い世話好きですが  

一度は平蔵の寝床にもぐりこんで、逃げ出された苦い思いをしています。
(中略)
平蔵が盗賊改方の長官になってからは、その出先のような役を担い、
連絡や見張りの場所はもちろん、隠れ家にもなり、
作品の多くに登場します”

小説に描かれた情景が紹介されているので、普通の歴史案内板とは一味違う。

小説に書かれた架空の店でありながら、

登場人物たちのやり取りに親しみを感じるうちに、江戸の暮らしを自分も体験しているような気になってくる。

平蔵の屋敷跡

ここは、江東区菊川。

この大きな通りは「新大橋通り」で、地下鉄・都営新宿線の「菊川駅」はすぐ近くだ。

写真右側の建物は歯医者さんの建物だが、

家の前に、ここが長谷川平蔵と遠山金四郎の屋敷跡だと書かれた碑が建っている。

碑が建っている

碑には、こんなことが記されている。

”長谷川平蔵は400石の旗本。
父の屋敷替えにより、平蔵が19歳であった明和9年(1764)、築地から本所三の橋通り菊川の1200坪余りの屋敷に移る。

平蔵は火附盗賊改方として、通例2~3年の任期のところ没するまでの8年間在職。

この間、職業訓練を以って社会復帰を目的とする「人足寄場」を石川島に実現。
(この話は、2011/11/13にも紹介している http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20111113.html )

寛政7年(1795)病のため、本所の屋敷で没、50歳”。

500石900坪

そして、この地図は江戸末期安政3年(1856)のもの。

地図には「遠山金四郎」の名前が見える。

”平蔵の孫の時代、弘化3年(1846)に屋敷替えがあり、この場所は

江戸町奉行 遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)の下屋敷となった。

遠山は天保11年(1840)に北町奉行に任命され、天保14年に罷免されるが、

水野忠邦失脚後の弘化5年(1845)、南町奉行に任命される。

天保の改革で弾圧をうけた歌舞伎を,浅草猿若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられる。

この地は、江戸の町人感覚にも通じ、治安に貢献した二人のゆかりの土地です”

金四郎が庶民の味方、名奉行として今に語り継がれるのも、水野忠邦の奢侈禁止令て芝居小屋が廃止されようとした際これに反対、

それに感謝した関係者が「遠山の金さん」ものを盛んに芝居で上演したからだといわれている。

遠山金四郎の石高は500石、古図には屋敷の面積が900坪と記されている。

屋敷があったと思われる場所を歩いてその広さを体験してみた。

すると、間口は私の歩幅で64歩(約45メートル)、奥行きは95歩(約67m)もあった。

実際に歩いてみて、二人がいかに広い土地に暮らしていたのかがわかった。

皆さんのお宅の、間口・奥行きと比較してみて、果たしてどうだろうか。

両国橋付近の地図

これは、現在の両国橋付近の地図。

隅田川の左岸、橋を渡ってすぐ右手のところに「与兵衛鮨発祥の跡」と書かれている。

江戸時代、江戸前の握りずしを考案した「華屋与兵衛」が店を構えていた場所だ。

華屋与兵衛跡

大きな通りから路地に入ると、こんな案内板が見えてきた。

”江戸前の握り鮨ができたのは、約200年前の文政年間、小泉与兵衛が考案したといわれています。

当時は大阪風の押し鮨ばかりだったところを、
酢でしめた飯の上に、ワサビを挟んでネタをのせて握られたものを、屋台で立ち食いするというスタイルは、一挙に江戸っ子の人気となりました。

与兵衛は屋台、裏店での店売りを経て「華屋」という屋号の店を開き、大繁盛しました”


「華屋与兵衛」という名前のチェーンの飲食店を見かけるが、その名はここから来ているのだろう。

路地の左右に立札

「与兵衛すし跡」の案内板がある路地、

その案内板のちょうど反対側に「鬼平情景」の案内も立っていた。

料亭「井筒」

料亭「井筒」

「井筒」とは「麻布ねずみ坂」に登場する料亭で、この辺りにあったとされ、
説明にはこんなふうに書いてある。

”この小説には裏の世界の人間がたくさん出てきます。羽沢の嘉兵衛もその一人です。
表向きは「井筒」という大きな料亭を経営していますが、裏では、盛り場ににらみを利かす香具師の元締で、
江戸市中の暗黒街で知らないものはいません”

この説明を読んでいると、この辺りを江戸の人たちが行き来していた様子が想像され、江戸時代を生きた人たちに不思議な親近感を覚えてしまった。

近くの料亭
 
近くで割烹の店を見かけた。

江戸時代にもこんな様子の店はあったのだろうか、

平蔵や金さんたちも、こんな店の「のれん」をくぐったのだろうか。

そんな思いをめぐらせながら、下町の道を走り、家路についた。

プロ野球草創期・伝説の球場跡を訪ねた


江東区新砂1丁目付近

今年の6月11日、NHKの「クローズアップ現代」で

「幻の日本シリーズ~フィルムからよみがえる選手たち」という放送があった。

番組は、昭和11年に行われた、日本プロ野球初の「日本一決定戦」を記録したフィルムが見つかったというものだった。

その中で映っていた投手は、あの伝説の名投手・沢村栄治。

ベーブルースを含む「大リーグ選抜」相手に、見事な投球をした選手として知られる。

その「日本一決定戦」の試合が行われたのは「洲崎球場」、
現在の江東区にあったと紹介されたので、早速訪ねてみることにした。

洲崎球場があったのは、現在の江東区新砂1丁目。

永代通りから南に、江東区運転免許試験場の方に曲がってしばらく行くと、右手に「洲崎球場跡」の碑が見えてくる。

洲崎球場跡

現在はオルガノという会社の敷地となっていて、ここに球場があったとは思えない。。

道路を挟んで反対側は、警視庁の第9機動隊の敷地だ。

当時の写真

これが、当時の洲崎球場。

日本でプロ野球団結成の機運が高まるきっかけは、前述の昭和9年の日米野球だった。

昭和9年12月には、大日本東京野球倶楽部(現 読売巨人軍)が誕生。

昭和11年には、7球団によるプロ野球公式戦が始まった。

球場見取り図

昭和11年のシーズン終了後、巨人とタイガースによる初の「プロ野球日本一決定戦」(3連戦)が、ここ洲崎球場で行われた。

発見されたフィルムには、巨人軍のエース・沢村栄治の映像が、わずか1球分だけ映っていた。

当時、沢村は19歳、
とてもきれいなフォームで、流れるように投げていたのが印象的だった。

2年前の大リーグ選抜との試合の時はわずか17歳だったことも、この番組で知った。

その時は、9奪三振と好投しながらも、ゲーリックによるホームランだけの失点で0-1と惜敗してしまったが、

その伝説のピッチングを彷彿させるような、素晴らしい投げ方がフィルムに残されていた。

江戸時代の地図

洲崎球場が作られた場所は、江戸時代には海のすぐ近くの新田開発されたところ。

昭和初期に球場ができた時も、すぐ近くまで海が迫っていて、

外野は、潮が満ちるとグラウンドが海水につかり、試合が中断することもあったとウィキペディアには書かれている。

大日本東京野球倶楽部の選手たち

初の「プロ野球日本一決定戦」が行われたのは昭和11年。

2.26事件が起きた年で、時代は、この後戦時色を強め、日中戦争から太平洋戦争と向かっていく。

沢村は、こうした時代の中で、合わせて3回、戦地へ赴くことになる。

ところが沢村は、戦地でボールの3倍以上の重さの手りゅう弾を投げることで肩を壊し、野球のボールを投げることができなくなってしまう。

昭和18年には、0勝3敗という成績で、巨人軍から解雇された。

そして昭和19年、沢村は3回目の戦地へ向かう途中、乗っていた輸送船が台湾沖で沈められ戦死。

27歳の若さだった。

巨人軍は、戦争後の昭和22年、沢村栄治の背番号14番を、プロ野球史上初の永久欠番としたほか、

同じ昭和22年には、先発完投型で、その年の最優秀投手に与える「沢村賞」も制定され、その功績と栄誉をたたえている。

今回、こうしてプロ野球草創期の洲崎球場跡を訪ねることで、

かつて、そこを舞台に活躍した沢村栄治の足跡をたどることになった。

その中で、

あの伝説の名投手沢村が、晩年、不本意な思いで野球界から去って行った経緯を、初めて知ることになった。

沢村の短かすぎる人生を思い、少しやるせなくなった。

二都の紅葉で出会った歴史②京都・清水寺

京都駅ビルで①

12月初旬、京都駅ビルの一角で、面白い水のパフォーマンスを見かけた。

水が、いくつかの京都らしい風景を描きながら、上部から流れ落ちてくる。

これは五重塔を表しているのだろう。

大文字焼き

こちらは「大文字の送り火」

この他にもいくつかの京の光景を、水が見事に描いていて感心した。

清水寺

この日、京都に着いてすぐ向かったのは清水寺。

中学校の修学旅行以来だったから、半世紀ぶりに訪ねたことになる。

紅葉も終わりに近く、冷たい雨も降って初冬のたたずまいだった。

毎年この時期、清水寺では「今年の漢字」が発表される。

「今年の漢字」が発表されるようになってから、今年でちょうど20年になることから、特別展も開かれていた。

一回目は平成7年、阪神・淡路大震災が起きた年。
その年は「震」という漢字が選ばれている。

古都の紅葉

今年の漢字は、12月12日に発表され、ご存知のように「税」という字が選ばれた。

和服姿の若い人たち

境内には、和服を着た女性が多かった。

女性だけではなく、若い男性も和服という姿を多く見かけた。

さすが京都と思ったが、近づいて話す言葉を聞くと、中国をはじめ東南アジアの人達であることがわかった。

和服体験をしていたのだった。

アテルイとモレの顕彰碑

境内を歩いていると、こんな碑と出会った。

難しい字だが

「北天の雄 アテルイ モレ 之碑」と記されている。

碑の横に説明があり、そこにはこんなふうに書いてある。

”アテルイとは、8世紀末岩手県水沢市を本拠とした蝦夷(エミシ)の首領、モレはその副将。

中央政府の数次にわたる侵略に対し、数年に及ぶ奮闘もむなしく、坂上田村麻呂の軍門に下り京都に連行された。

田村麻呂は、敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが入れられず、二人は802年河内で処刑された。

そして田村麻呂開基である清水寺境内にこの顕彰碑を建立した”


この碑を建てたのは、奥州市水沢地区出身者などで作る「関西アテルイ・モレの会」の人達。

平安遷都1200年を期して、1994年に建立された。

「関西アテルイ・モレの会」の説明には、

”朝廷と蝦夷との戦いは774年から811年まで38年間も続いた。

その最中の802年、阿弖流為たちは休戦に応じて兵500人余りを率いて投降、京都に連れられる。

田村麻呂は両雄の武勇と器量を惜しみ東北経営に登用すべく助命嘆願するも聞き入れられなかった”とある。

碑文の揮毫は、清水寺の森清範貫主。

毎年「今年の漢字」を一気に書き上げている人だ。

顕彰碑

歴史は勝者の側からしか記されてこなかった中で、敗者はほとんどすべてが歴史の闇の中に消えてしまっている。

アテルイ、モレという人物がいったいどんな人物であったのか、更に当時の東北地方はどんな生活であったのかなどを知る手掛かりは極めて少ない。

そんな中にあって、この碑は敗者を顕彰する数少ないものといってもいいだろう。

舌切茶屋

境内を進むと茶店が見えてきた。 「舌切茶屋」と書いてある。

おととしの大河ドラマ「竜馬伝」で、土佐藩主の山内容堂を演じた近藤正臣さんにゆかりの深い茶店が清水寺境内にあると聞いていた。

これがそのお店だと、すぐに気が付いた。

時は幕末、天皇の勅許なしに開国を進めようとした大老・井伊直弼は、これに反対する尊王攘夷派を弾圧して安政の大獄が起きる。

このころ、清水寺の塔頭、成就院住職の兄弟、月照上人と信海上人が討幕運動に身を投じる。

幕府の弾圧から逃れるため、月照上人は薩摩の西郷隆盛と共に九州に逃れるも入水自殺で命を絶ってしまう。

その月照上人の友であり、成就院の執事をしていた近藤正慎という人物が、近藤正臣さんの曽祖父にあたり、この舌切茶屋が境内に出来た理由ともなっている。

というのも、近藤正慎はその後幕府方に捕えられ、月照上人の行方を問われ拷問を受ける。

しかし近藤は白状することなく自ら舌を噛み切り壮絶な最期を遂げる。
これが茶屋の名前「舌切」の由来となっている。

清水寺は、近藤の功績に報いるため、遺族・家族の生計になればと境内茶屋の開設権利を与えたとのことだ。

境内にはこの他に「忠僕茶屋」という名の茶店がある。

こちらは、月照上人の九州下向につき従ったあと捕えられ、月照上人さらには獄中で再開した信海上人の二人の墓を守り続けた大槻重助という人の子孫が経営している。

ということで、今年の紅葉見物では、

11月末には皇居近くで彦根藩屋敷の碑と出会い、12月初旬・京都では尊王攘夷運動ゆかりの茶屋と出会うことになった。

「今年の紅葉は、井伊直弼がキーワードだったようだ」と思っている。

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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