変わりゆくもの変わらぬもの

金沢シティモンドホテル

少し前の話になる。

今年の春先、久しぶりに金沢に行く機会があった。

兼六園近くにあった「金沢シティモンドホテル」の前を通ったとき、驚きの看板を目にした。

市内でも有数のホテルで、様々な会議のため度々、利用したことがあったのだが。

よく見ると高齢者の施設に代わっていた

介護付きの有料老人ホームに変わっていたのだった。

北陸新幹線の開業で観光客が増加しているとの記事を目にしていたから、その転身は衝撃的だった。

ホームページを見ると、老人ホームの開設は平成16年とあったので、すでに12年もたっている。

居室は、一般と介護付きを合わせて184室、定員は合計211人。

一部の部屋で空室があるが、毎日お客さんが変わるホテルよりは、稼働率は安定しているのかもしれない。

森八

そして、シティモンドの前に建っていたのは、金沢の老舗の和菓子屋さん「森八」の店舗。

ここでお茶を飲むために立ち寄った際に、シティモンドの転身に気がついたのだった。

「森八」は、創業が1625年、400年近くの歴史を有し、販売している落雁の一種の「長生殿」は日本三銘菓の一つと、ウィキペディアの中で紹介されている。

森八

私が金澤で暮らしていた平成7年当時、「森八」は多額の負債を抱え、深刻な経営危機を迎えていた。

その後、金沢を離れ、久しぶりに訪れた今回、森八がこの地で、これまでより立派な店舗を構えているのに出会った。

「森八」のホームページや他の記事を見ると、伝統の上に胡坐をかいてきた仕事の進め方を見直しするなどして再建を果たしたことが記されていた。

真田丸のタイトル文字のあの人だ

店内の壁面をデザインしたのは、左官の挾土秀平氏。

今年のNHK大河ドラマ「真田丸」のタイトル文字を、左官のこてで描いた人として知られる。

作品のタイトルは「花衣」。

”城下の町に風がそよぎ、花が舞う優美な情景を表している”との説明がついていた。

時代の移り変わりの中で、こちらはその歴史を絶やさず歩み続けている一例だ。

赤羽橋の水素ステーション

こちらは、東京タワーのすぐ下、国道1号線沿いの赤羽橋近くにできた「水素ステーション」。

「ガソリンではなく、水素を燃料に使う次世代の車」のための施設だ。

トヨタやホンダなどが量産車を市場に投入している。

以前、お台場に建設が進む水素ステーションを紹介したが、

ここは、以前私が給油をしていたガソリンスタンドのすぐ横。

水素ステーション

このとき、利用している車を見ることはできず、静かだった。

普及するかどうかの一つのカギは、水素ステーションなどのインフラの整備だという。

今後、水素ステーションが全国でどのように増えていくのか、そして利用率はどんなものなのか、観察しながらウオッチしてゆくことにしよう。

ハヤシライスの名前の由来

これからは日本橋界隈をウォーキングしているときに見かけた広告。

これは、日本橋の丸善本店のショーウインドに掲げられていた。

「ハヤシライス」という名前は、丸善の百年史の中に”創業者「早矢仕 有的(はやし・ゆうてき)」に由来する”と書いてある。

創業者ハヤシ ユウテキ

つまり、早矢仕 有的が、有り合わせの野菜や肉類をごった煮にして出したものが、今でいうハヤシライスの元なのだという説明だ。

しかし、ビーフシチューに近いものをしょっちゅう作っていないと、ハヤシにはならない。

江戸時代から明治初年にかけての頃といえば、牛肉を食する環境は今ほどない時代だったから、普段から家庭で頻繁に牛肉を食べていたとは考えにくい。

面白い広告ではあったが、私にはこの説明だけでは説得力が欠ける。

ウィキペディアを見ても、ハヤシライスの由来は諸説あると紹介されている。

皆さんはどうお考えだろうか。

そして、その隣に掲げられていた広告が、私にはそれ以上の関心を引いた。

技術者のいる時計店

それがこの広告。

「技術者のいる時計店」

私の子供の頃、どこの町にも、どこの商店街にも時計屋さんがあって、目に拡大鏡をつけたおじさんが調子の悪い時計を直してくれた。

今、町中から時計屋さんがどんどん消え、電池を交換するにも不便な時代になってしまった。

ゼンマイ時計から、電池式、そしてソーラー充電で電池交換が不要の時計の出現、

さらには、腕にはめる情報機器の登場で、時計をめぐる環境は激変した。

こうした中で、時計は直すものではなく交換するものになってしまった感がある。

しかしながら、そんな世の中になっても、時計を直してもらいたい人はいる。

愛着ある時計を修理してほしい、直してくれるところがないという切実な声が、この広告の背景に見えるようだ。


この5月5日、作曲家の冨田勲氏が亡くなった。

昭和38年(1963年・第18回東京オリンピックの前年)から放送が始まったNHKの「新日本紀行」のテーマ曲を作った方だ。

私が大好きなテーマ曲で、途中に入る木槌のような乾いた音が、日本の風土と文化を象徴するようで胸にしみいる。

(なお、昭和38年10月7日の第一回放送で取り上げた地は『金沢』で、ナレーターはスタジオ102も担当した井川良久アナだった)

2005年・放送80周年の年に、続編として「新日本紀行ふたたび」の放送が始まったが、

そのとき、あの名作の曲に、薩摩琵琶奏者の坂田美子さん作詞の歌を重ねたものがテーマ曲として使われた。

”いにしえ息づく 時の道で  変わりゆくもの 変わらぬもの

たどりめぐりて ふたたび出逢う  面影を この心に”

今回のテーマは、その一節からお借りした。

ユーチューブに、冨田勲さんが千葉県少年少女オーケストラの若い音楽家たちを指揮して演奏した「新日本紀行」のテーマがあったので紹介したい。
(坂田さんの歌は入っていないが)



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新しい年が始まった

国立代々木競技場

新しい年 2015年が始まった。

元日、国立代々木競技場の横を歩いていた。

この建物は、1964年・昭和39年の東京オリンピックの際、丹下健三の設計で作られたもの。

内部に柱はなく、今見ても全く古さを感じさせない。

こちらの第一体育館では、当時競泳、飛び込みなどの競技が行われ、これより一回り小さい第二体育館はバスケット会場として使われた。

2020年に開かれるオリンピックでも、ここはハンドボールの会場として使われる予定になっている。

代々木公園

体育館のすぐ隣は、代々木公園。
明治末には、陸軍の代々木練兵場だった。

太平洋戦争後は連合軍に接収され、ワシントンハイツとして米軍の住宅地として使用されてきたが、先のオリンピックの時に返還され、オリンピックの選手村として利用された。

この公園、去年の夏には熱帯病のデング熱の感染場所として、全国の人達にその名を知られることとなった。

当時、代々木公園周辺でデング熱に感染した患者の数は100人を超え、公園はさらなる感染を防ぐために一時閉鎖された。

「デング熱を媒介する蚊の卵も、年越しをしたのだろうか」

そんなことを思って、公園内を歩く。

オランダ選手の宿舎

原宿駅の方に向かって歩いていると、前のオリンピックでオランダ選手の宿舎となった建物が見えてきた。

旧ワシントンハイツの戸建て住宅を利用したものだそうだ。

久しぶりに建物の様子を見てみようと近づいてみた。

クリスマスリース

玄関のドアに、クリスマスリースのような飾りが掛けられていた。

以前訪ねた時、こんな飾りはなかった。

こんな心遣いをしながら保存されているのだと感じる。

五輪橋

地下鉄・明治神宮前駅のほうに向かって歩く。

山手線をまたぐ橋の名前は「五輪橋」

5年後も会場になる

2回目の東京オリンピックの開催まであと5年。

今年から、その準備に向けて本格的に動き出すと、元日のニュースで伝えていた。

代々木公園の「蚊の駆除」についても、力を入れてほしいところだ。

シラサギ

今年の走り初めは、翌2日。

この正月は日本海側を中心に大雪となったが、関東南部では晴れの天気が続く。
なにか申し訳ないような気持ちになる。

北陸で14年間暮らしたから、雪国の人に連帯感を感じているからだろう。

この日は荒川河川敷から、旧中川沿いの遊歩道を走る。

10キロ余りの距離だ。

このコース付近には、シラサギが多く生息していて珍しくもなく、普段はわざわざ写真を撮ろうとは思わない。

しかし、正月になると話は別、

美しい白は、今年一年の多幸を招いてくれるような感じがして、思わずカメラに収めた。

「どうか、今年一年、無事に過ごせますように」

そういえば、今年は

阪神・淡路大震災から20年。

大地震・大災害が無いように祈りながらも、地震列島に暮らす以上はいつか起きることも覚悟しなければならない。

その時にどう行動するか、心構えだけは忘れずにと思う。

皆さんも、どうぞ今年一年をお大事に。















「女子プロ野球」の歴史の一端

田中将大の記念ボール

東京ドームにある「野球殿堂博物館」の一角に、元楽天の田中将大のユニフォームと、2013年のシーズンに連勝記録を達成した際の記念ボールが飾られていた。

田中は2013年ペナントレースでは24勝で負けなし、

2012年から年をまたいで続く連勝も「28」まで伸ばすという大記録を打ち立てた。

2014年からのシーズンではヤンキースの一員として、内外のファンから大きな注目を集める存在となっている。

昭和25年発足の女子プロ野球

同じ「野球殿堂博物館」中に、昭和25年に発足した日本の女子プロ野球の選手が使用したミットとグラブが展示されている。

実は、私の姉も発足当時の女子プロ野球のチームに在籍していたことがあり、当時の話しを聞いたことがある。

当時の新聞記事

これは、昭和25年、日本女子野球連盟が発足し、後楽園で4チームによるトーナメントが行われた時の新聞記事。

姉が大事に保存していたものだ。

以前、姉に聞いた話や、女子プロ野球について記した新聞記事から当時の様子を簡単にまとめると、次のようになる。

”日本で女子プロ野球が発足したのは昭和24年、

「ロマンス・ブルーバード」というチームが出来たのが最初で、翌25年に、「レッドソックス」、「ホーマー」、「パールス」が誕生。

昭和26年の3月、上記の4球団で日本女子野球連盟が作られた。

しかし個人オーナーの球団であるブルーバードと、企業がバックアップする他チームとの考え方の違いから、ブルーバードは連盟結成から5か月で連盟を脱退。

当時の新聞記事やその後の研究著作によると、連盟はブルーバードを「もうけ主義の興行師的経営は女子野球を毒する」と批判、このためブルーバードは連盟から脱退したのだった。

その歴史

当時の新聞には次のような厳しい記事もある。

「発足まもない女子野球に一般の人たちがどんな感じを抱いているかといえば“ショウ的野球”以外の何ものでもない」。

連盟内の対立の背景には、女子プロ野球が目指すものは何なのか“ショウなのか、男子プロ野球に負けない技術なのか”その辺りの考え方に食い違いがあったようだ。

その後、技術中心の本物の女子プロ野球を作ろうという動きの中で多くのチームが生まれ、翌26年には公式リーグ戦も始まった。

当時の入場券

当時の入場料は内野席で60円とある。

昭和25年当時の物価データを見ると、国鉄の入場券が5円、都内のラーメンの平均の値段が25円、コーヒーが30円だった。

ラーメン2杯分程度の料金といえようか。

昭和25年当時のことを記した新聞記事によると、チームの財政状況は厳しかったようだ。
記事には次のように書いてある。

「(日本女子野球連盟が)4月に発足以来6月いっぱいまで北海道を除く全国各地で52試合を行い、1試合のギャランティは平均で約5万円。うち1割は連盟に、残りを勝者6.敗者4の割合で分配。選手の給料は約7千円が最高、最低は3千円くらい。関西の球団では新加入の選手には3か月無給のところもある」

このことに関して姉に聞いたところでは、「給料については一度も貰った覚えはない」という。

ただ、用具は支給され、巡業の旅費・旅館代などの費用は球団で出したので、個人負担することなく各地を旅行することはできたと話していた。

(因みに、人事院のデータでは、昭和26年の大卒の初任給が5500円、短大卒で4450円という時代だった)

PRチラシ~和歌山

姉が最初に入団したのは「ニッサン・パールス」という名の球団で、「ホーマー」とコンビを組んで全国を巡り2チームで試合をするとともに、地元の男性チームから対戦相手を募り、試合をしたという。

使用球はトップボール。

入団から間もなく、姉は全国で11番目に出来た「クロススターズ」というチームに引き抜かれたが、姉はほどなくチームをやめている。

その理由について聞くと、「チームの財政事情が火の車であったことに嫌気がさしたから」ということだった。

日本の女子プロ野球は、その後各球団とも次第に企業色が強まり、親会社の社員として午前中は他の社員と同様の業務を行い、午後に練習するというノンプロ化が進んだ。

そして昭和27年までに連盟加入の全球団がノンプロへの移行を完了し、女子プロ野球は2年で終わったというのが、初期の女子プロ野球の歴史だ。

日本女子プロ野球機構

その後、近年になって女性による野球チームも増え、国内、国外ともに様々な大会が開かれるようになっている。

国際野球連盟(IBAF)による女子野球ワールドカップは2年に1回開かれ、日本チーム(マドンナジャパン)は直近の大会で3連覇している。

2010年からは、日本女子プロ野球機構(JWBL)のリーグ戦が始まり、2013年には関東にも球団が生まれている。

JWBLのホームページには、リーグ戦での「好プレー集」などが映像で紹介されているが、それを見るとかなりの技術レベルであることがわかる。

戦後間もなくのころには、女性が野球をやる環境など無かったし、したがって練習する機会もなかった。

姉の場合は「選手の募集を知り、テストの前日にバットスイングを教わって臨んだところ見事合格」ということだから、今の女子プロ野球のレベルとは比べ物にならなかったはずだ。

発足当初の女子プロ野球

今や、レスリング、ボクシング、サッカー、重量挙げ、等々、かつては女性がすることが考えられなかったスポーツに女性選手が生まれる時代になった。

そして、いくつかのスポーツでは女性のプロ選手も誕生し、プロスポーツとして人気を集めているものも少しずつ増えてきている。

そのような女性のプロ選手を生んだスポーツの中でも、野球は有数の古い歴史を持っている。

しかし、その歴史の長さの割には、まだまだ人気も知名度も十分であるとは言い難い。

いつの日か、野茂、松井、佐々木、ダルビッシュ、田中などに負けないに人気と実力を持った選手が、女子プロ野球の世界にも出てくる時代が来るのだろうか。

北陸新幹線「愛称」応募の記

北陸新幹線

この10月15日、JR九州が運行する豪華寝台列車「七つ星」が運行を開始、来年6月まで予約でいっぱいとの人気ぶりをニュースが伝えていたが、今日紹介する話もJRに関連するもの。

それは、北陸新幹線の列車の愛称に応募をしたという話だ。

北陸新幹線は、現在の長野新幹線の長野駅から北上して日本海に出、更に北陸の富山、金沢方面に延伸するルートで、2015年の春に金沢まで開業する。

これまでは「長野新幹線」という通称で呼ばれてきたが、ようやく本来の「北陸新幹線」との呼称が使われることになる。

開業を前に、新幹線の列車の愛称の募集があった。

北陸には、これまで合計で14年間も暮らした縁がある。
是非、応募しようという気になった。

北陸に暮らしていた当時、北陸新幹線が金沢まで走るのは20年後とのことだったから、ずいぶん先の話だと思っていた。

しかし、もう1年半後に迫っている。

過ぎゆく時間の速さに、それなりの感慨を感じている。

JR金沢駅

これは、今年1月に撮影したJR金沢駅。

新幹線の開業に備えて、駅も大幅に改築された。

金沢駅だけでなく、その先の福井駅も、金沢以西の開業がきまっていない中で、すでに駅舎などが新幹線仕様になっている。

さて、列車の愛称だが、応募にあたって、これまでの新幹線の列車名から「傾向と対策」を考えてみた。

私なりのまとめでは、

新幹線の愛称の文字数は、ひらがなで3~4。

3文字が多いが、2文字のものもある。

東海道・・「のぞみ」「ひかり」「こだま」

山陽、九州・・「みずほ」「さくら」「つばめ」

東北・・・「はやぶさ」「はやて」「やまびこ」

上越・・・「とき」「たにがわ」

山形・・「つばさ」

秋田・・「こまち」

等々

ルート図

名前の意味で整理してみると、

新幹線のスピード感に因むものは

「ひかり」「はやて」「つばさ」など。


新幹線が走る地域に因むものとして

「こまち」「とき」「たにがわ」などがあげられる。

以上のことを踏まえて、私が考えた名前の候補は

停車駅の少ない最速タイプが「きらり」。

この名前に地域性はまるでないが、金沢で暮らしていた平成4年当時、NHKの朝ドラに「ひらり」という番組があった。

そのタイトルとよく似ているし、スピード感もある。

そこで、もう一つ考えた「きらめき」という対立候補を抑えて、「きらり」を応募したのだった。

親不知付近

ここは、新潟県の親不知付近。

昔から知られた難所で、富山県との境に近い。


地域性を重視して考えた列車名の候補は、以下の3つだった。

「みやび」・・これは加賀百万石をイメージしたもの。

「ありそ」・・「奥の細道」の道中で、芭蕉が富山県内で詠んだ「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」からとってみた。

芭蕉が富山県内で詠んだただ一つの句だ。

「こし」・・・高志=越、つまり琵琶湖の先を意味する言葉から、北陸をイメージする言葉だと思った。

いずれも、新幹線の売り物であるスピード感がないのが欠点だが、各駅停車の列車なら、こんな命名もいいのかもと思ったのだ。

そして、この3つの中から私が実際に応募した名前は、「みやび」と「ありそ」だった。

富山市付近

そして10月10日に「愛称」が発表された。

その結果、東京~金沢間の、停車駅の少ないタイプが「かがやき」。

理由は、「スピード感があり、未来を感じさせる」。

私の考えた「きらり」「きらめき」と言葉の雰囲気は似ていて、惜しいという感じだが、残念ながら落選となってしまった。

そして、多くの駅に停車する列車の愛称は「はくたか」と決まった。

こちらの選考理由は、「最も応募数が多かったほか、かつて上野~金沢間の特急の名称でもあった」とのことだ。

なお、富山~金沢往復型の愛称は「つるぎ」、

東京~長野間の列車については「あさま」を継続するという。

ということで、私の応募した愛称は、すべて落選。

私の北陸への思いが届くことはなかった。

なお、新幹線の北陸への延伸で、東京~金沢の所要時間は2時間28分と3時間を切ることになる。

所要時間が3時間を切ると、乗客は飛行機の利用から列車に移るといわれている。

開業すれば観光や旅客輸送など様々なところで、大きな変化が起きてくるのだろう。


友人が67歳でシャンソン歌手にデビューした

ライブの看板

中央線・西荻窪駅近くのライブハウスの前。

友人の、初ライブのチラシが貼ってあった。
シャンソン歌手としてのデビューのステージだ。

小学校時代の仲間4人で、聞きに行った。

会場は満員

会場は満員の盛況、空いている席はない。30人は集まっている。

今夜の主役は、黒の衣装に身を包んで右に写っている。
ライブに集まった人に声をかけてまわっていた。

このライブのために1年以上前から準備を重ねてきたという。

彼は、つい最近まで、放送局で音楽番組の製作に携わってきた。

この日、集まったお客の中には、著名なクラシック歌手をはじめ、プロとして活躍する音楽家も多いという。

堂々と歌い始めた

夜7時過ぎ、ライブが始まった。

なぜ歌い手を目指したのかなどを、曲目を紹介しながら語る。

きっかけは、仕事で様々な歌い手に会い、様々な歌を聞くうちに、「自分だったら、もう少し違う表現をする」と思ったこと。

「勿論、プロの凄さを知っているし、簡単なことではないことも知っている」と付け加えた。

自分なりの解釈、表現で歌ったみたいという気持ちが、その高い壁に向き合ってみたいと思ったのだろう。

ロシア出身のエカテリーナさんがゲストで歌った

ロシア出身の歌手・エカテリーナさんも会場に来ていた。

「NHKみんなのうた」で、2005年「古いお城のものがたり」2008年「ホッキョクグマ」を歌った人だ。

この日は、「百万本のバラ」と日本語による「五木の子守唄」を歌った。

特に「五木の子守唄」は、日本の山里の暮らしを、美しい声で心豊かに表現していて感心した。

「日本人がシャンソンをうたうこともできる」

私は、そう思って聞いていた。

プログラム

この日のプログラムは、全10曲。

日本語で歌うのは、美空ひばりの熱唱で知られる「愛燦々」だけ。

あとは、全てフランス語で歌う。

歌の心をつかむため、フランス語の歌詞をとことん読み込み、時代背景なども自分が納得するまで勉強してきたと語る。

ただ、日本語で歌う「愛燦々」にしても、歌うにはハードルが高い、難しい曲だ。

この日会場に来ていた日本有数のメゾソプラノ歌手の人も、この曲をカバーしていてるとの前説でこの歌を歌った後、彼は一言

「〇〇さんより、うまく歌わないように気を遣いました」

人生を歌うシャンソン、

そのシャンソンを歌うのに十分な、人生の年輪と度胸とユーモアを重ねてきたのが見えた。

ライブのチラシ

人生の残り時間をどのように生きるか。

これまで仕事に追われて、できなかったことに挑戦する姿に、私も刺激を貰った。

10曲目に歌った「そして今は」、野太く力強い歌声が会場に響いていた。

ライブが終わった後、彼はライブハウスのマスターに

「何か機会があったら、是非声をかけてほしい。ぜひ歌わせてほしい」と話していた。

これからの活躍を祈る。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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