昔の冬は寒かった~古民家で、そんなことを思った

一之江名主屋敷
 
初冬の穏やかな日、江戸川区に残る「一之江名主屋敷」を訪ねた。

江戸時代、付近の新田開発に主導的役割を果たした名主の屋敷だ。

敷地は2000坪あまり

敷地面積は2000坪あまり、地図で見ると、近くの中学校と同じくらいの広さがある。

主屋とその周辺に庭園、畑があり、周囲は屋敷林と堀でかこまれている。

安永年間の建築

茅葺きの主屋は、安永年間(1772~1780)に再建というから、今から250年ほど前になる。

何しろ、名主の邸宅だから敷地も広いし、建物も大きい。

囲炉裏

土間、板の間、座敷。
広々とした建物内で、火が身近なのは、この囲炉裏と、台所だけ。

天井も高く、見るからに寒そうだ。

炭を使った火鉢や炬燵はあっただろうが、冬を温かく過ごすのに十分であったとは思えない。

立派な家構えだが

名主の家だけに立派な外観だが、それでも隙間風は容赦なく入り込みそうだ。

ましてや江戸時代の庶民の家は、名主の家と比べれば普請も十分ではなく、冬の寒さは大変だったろう。

薪

薪割りだって力仕事だし、ひと冬分の薪を集めるのだって簡単ではない。

北海道開拓民の家・明治18年建設

これは、明治初期、北海道の釧路郊外に入った開拓民の住居の写真。

鳥取士族が開拓の中心で、当時の苦闘の記録が、釧路市の鳥取神社に併設された資料館に残されている。

氷点下30度にもなる厳寒の中で、冬を生きて越せるかどうかの中での開拓だった。

北海道、特に道東の冬の寒さは半端ではない。

気温は北海道ほどの厳しさではないとはいえ、江戸時代の庶民の住居が開拓民の小屋とそれほどの違いがあったとは思えない。

江戸の冬は、今よりずっと寒かったはずだ。

畑で見たものは

名主屋敷の畑をのぞいてみた。

左に見える赤いものは、唐辛子。

そして右には、何やら白いものが見える。

綿

近づくと、

綿の実がはじけて、綿の繊維が姿を現していた。

この古民家では綿を栽培し、昔の人がしたように、綿糸を紡ぐイベントを計画しているという。

綿を紡ぐ

綿を見ていると、東北の「刺し子」を思い浮かべた。

綿布などを重ね、糸で幾何学的な模様などを縫い込んだ刺し子は、美しく丈夫で、防寒着にぴったり。

現在のダウンのように重宝にされたのだろう。

刺し子

骨董市で見かけた古着。綿の素材で作られている。

この着物でどれほどの冬を過ごしたのだろう。

なんと45万円もの値札がついていた。

縁側の綿

今年は暖冬だという。

水温が下がらず、のりの生育が極端に悪いというニュースもあった。

とはいえ、一応は冬だから、それなりに寒い。私は鼻風邪もひいてしまった。

でも昔、自分が子供だったころ、冬は今よりずっと寒かった。

部屋にエアコンはなかったし、電気毛布、電気あんかもなかった。

お湯がすぐ出る温水器もなけれは゛、電気ヒーター、ガスヒーターだってなかった。

あったのは、火鉢と炬燵だけ。

よく、「股火鉢」と言って、火鉢の上をまたぐようにして座り、暖をとったものだ。

不格好だった。でもやらずにはいられなかった。

しかし今は、もう完全に「死語」。火鉢を見たことのない人も多い。

信長が好んだ幸若舞には、「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢 幻の如くなり」とある。

平均寿命が、「人生50年」だった時代からどんどん伸びてきたことの背景には、

厳しい冬を乗り切るための「防寒・暖房システム、並びに医療の進歩」がある。

この半世紀、生活環境はずいぶん変わり、ずいぶん暮らしやすくなった。

しかし、その便利で温かい暮らしの背後に、地球温暖化への危険が潜んでいると、最近よく言われる。

確かに、便利で快適な暮らしを追求する中で、いま大きな曲がり角を迎えている。

地球温暖化を”他人事(ひとごと)”と思ってはならないのだろう。

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仏作って魂入れず

国立公文書館

千代田区の北の丸公園、
国立近代美術館の西隣りにある「国立公文書館」に行ってきた。

平成27年秋の特別展を見るためだ。

ここでは、膨大に保管する公文書の中からテーマを決め、興味深い企画展を定期的に開いている。

今回のテーマは「災害に学ぶ~明治から現代へ」

地震、火山、台風、豪雨など私たちの身の回りには危険がいっぱい、
明治以来の大災害に関わる公文書がて展示されていた。

「これは見逃せないぞ」、そんな思いで会場までジョグで訪ねた。

福井地震、列車転覆

三陸地震、関東大震災、伊勢湾台風、等々様々な災害にまつわる文書、写真などがあったが、

私が私が関心を持ったのは、福井地震に関するものだった。

今から40年ほど前、福井市に5年ほど暮らしていたからだ。

福井地震の発生は、昭和23年6月28日午後4時13分。

震源は福井平野の丸岡付近と言われ、マグニチュードは7.1。
震源に近いところでは、住家の全壊率が100パーセントという集落が多数出現した。

福井市でも全壊率は80パーセント超となった。

このはげしい揺れを受けて、気象庁は震度階に「震度7」を新しく加えたのだった。

鉄道の被害状況

これは、富山から敦賀までの鉄道の被害状況をまとめたもの。

わら半紙状の粗末な紙に、多大な被害状況が書き込まれている。

「九頭竜川橋桁 全部落下」 「客第603列車3輌脱線」 「駅舎倒壊」などの被害状況が生々しく記されている。

地割れ

地震当日、市内の映画館から外に逃げる途中、崩れてきた建物の梁の下敷きになったものの、かろうじて命を長らえた人がいた。

地震から四半世紀ほど経過した昭和50年ころ、その人から当時の様子を聞く機会があった。

その方は、火災が迫る中、死を逃れるために、自分の左腕を切断したのだった。

内閣府のホームページの「中央防災会議」の中に、福井地震に関する専門調査会の報告書があり、ご本人が書いた体験記が掲載されている。

梁(はり)に左腕が挟まれ、重たくで梁を持ち上げることができない。

救出しようとした人も、火災が近づく中、一人去り二人去りしてゆく。

「このままでは死んでしまう」
生きるために腕の切断を決断し、一人残った映写技師に腕を切断すると伝え、斧で切断したのだった。

映写技師の人は近くから斧を調達してきたが、自分自身で切断するようにと本人に斧を手渡した。

本人がやってはみたもののできず、結局、映写技師の人が介錯をする形で助勢したという。

体験記には、二人のそのときの切迫したやり取りが淡々とつづられ、今読んでいても胸が痛い。

その生々しい体験記は、以下のページをご覧ください。

第5章「被災者の記録から読みとく被災実態」 第3節「被災者の体験記」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1948-fukuiJISHIN/pdf/08_chap05.pdf

この話を聞いて以来、身近なところに「車のジャッキ」を置いておかねばと思うようになった。

自らの腕を切断するという決断は、自分にはできないからだ。

水害で堤防決壊

さて、福井地震からほぼ1か月後の7月24日~25日、
福井市は、今度は集中豪雨にみまわれた。

堤防は、地震で亀裂が入っていたために決壊し、福井市内の6割が浸水してしまう。

福井県知事から内閣官房長官などに宛てた電報には

「九頭竜川堤防 各所決壊に瀕す 避難命令を出しつつあり」と記されている。

建築基準法制定

福井地震から2年後の1950年、建築基準法が制定された。

福井地震は、法律の制定にあたって大きな影響を与えたのだ。

内閣府のホームページには

福井地震から学ぶ教訓として、次のことが記されている。

「建造物の耐震改修の推進は、地震防災の基本である」

建築基準法は、それ以来今日まで、4回改正された。
建物を強固なものにして、より安全な社会をつくるためのはずだ。

それなのに、つい最近、横浜の大型マンションで、基礎の杭の一部が固い地層に届いていなかったという事実が明らかになった。

建設業者・販売業者ともに業界の大手だったというのも驚きの一つだった。

残念ながら
大きな災害から学んだ教訓が、生かされていないという言わざるを得ない。

まさに「仏作って魂入れず」とは、このことをいうのだろう。

国立博物館で「昔の夏の暮らし」を思い出した

故宮博物院展へ

暑い日が続いて、日中は走る気がしない。

ならば、涼しい建物の中で、世界の名品を見ようと「台北故宮博物院展」の開かれている、上野の国立博物館へ出かけた。

久しぶりに「平成館」の前まで来ると、こんな写真と説明があった。

この写真はご存知「森鴎外」。

説明によれば、森鴎外は帝室博物館総長として、ちょうどこの付近にあった総長室で、大正6年から11年に亡くなるまでの間執務していたという。

へえーっ!と思って、博物院展の会場に入った。

故宮の宝物については、以前、台北と北京を訪ねた際、駆け足で見学したことがあった。

今回は、もう少しじっくり鑑賞できるかと期待していったが、目玉の「ヒスイの白菜」の展示は終了していて、私にはあまり関心のない「書」の展示が多く、多少期待は裏切られた。

国宝室

企画展が物足りなくても、国立博物館の本館には常設展示がある。

教科書で見た数多の国宝を始め、日本文化の粋ともいえる素晴らしい収蔵品をまじかに見ることができる。

ここは「国宝室」。

およそ1か月毎に、その時期に相応しそうな国宝を展示している。

今年の1月は、長谷川等伯の「松林図屏風」。
2月は雪舟「秋冬山水図」といった具合。

果たして今月は何か、絵の前のソファーには外国の青年が腰かけて見入っていた。

「納涼図屏風」

久住守景の「納涼図屏風」だった。
久住守景は狩野探幽門下で、この作品は17世紀、江戸初期のもの。

ひょうたんが頭上を覆う軒端の下、蓆を敷いて涼む3人は親子のようだ。

女は腰巻だけのようだが、涼しい風を待っているのだろう。

私の子供のころは、クーラーなど無かったから、今のように密閉された部屋の中にいることなどは考えられなかった。

夕涼み、縁台将棋などは暑さしのぎの定番だった。

根付「打ち水」

これは高円宮が蒐集された「根付」を展示する部屋で見つけた。

タイトルは「打ち水」。

昔は、店の前で「打ち水」をする光景をよく見かけた。

最近は、時々ニュースで、

地域で一斉に打ち水をして、街を涼しくしようとの取り組みが紹介されることがあるが、暮らしの中の習慣としては消えてしまったようだ。

歌川国直「夏」

江戸後期の浮世絵師・歌川国直の「夏」という浮世絵。

髪を洗う母親と幼児が描かれている。

左下には、「たらい」が描かれている。

私と同時代の人であれば、夏の暑い一日、盥に入って水遊びをしたり、体を洗った思い出のある人も多いはず。

狭いながらも開放感があって、楽しい思い出の一つだ。

川又常行「蚊帳美人図」

そして「蚊帳」。この字を「かや」と読むことのできない人も多くなったことだろう。

これは江戸初期の絵、「蚊帳美人図」(川又常行)。

アフリカでは、伝染病の防止に蚊帳が今でも活躍しているという報道を見たことがあるが、
日本では「蚊帳」を見たこともない人の方が多いのではないだろうか。

”蚊帳の中に入る時は、蚊が中に入らないように急いで入る。

風が吹いても、細かい網目が邪魔をして、思ったほど涼しい風が通らない。

雷が鳴った時に蚊帳の中に逃げ込むと、少しは安心できた”


僅か半世紀前の風景だが、そんな「夏の思い出」は姿を消してしまった。

こうして昔の名作を見ていると、今、世の中の移り変わりはあまりにも激しい。

今という時代は、人間の暮らしを劇的に変えている時代」であるということがよくわかる。

「不易流行」

変わるものと変わらぬもの

激しく移り変わる世にあって変わらないものは何か

博物館に行くと考えさせられる。




伊賀上野城の天守を作った男

憲政記念館

国会議事堂のすぐ近くに建つ「憲政記念館」。

議会制民主主義について、広く国民に知ってもらおうという施設だ。

この場所は、江戸時代には井伊家の上屋敷があり幕末期の大老・井伊直弼が起居した場所でもあったと、パンフレットに書かれていた。

「戦後日本の再出発特別展」

ここでは、今「戦後日本の再出発」と題する特別展が開かれている。

昭和20年の敗戦から、新憲法制定に向けての様々な動き、女性参政権が確立して初の総選挙、などに関する関係者の日記や各種資料が展示され、とても興味深いものだつた。

新憲法の制定にあたって、GHQとの折衝にあたった白洲次郎の手記もあり、こんなふうに書かれていた。

「斯ノ如クシテ コノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル 「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘキレス ヒソカニ涙ス

昭和二十一年三月七日」

会場の資料には、GHQとの間でどんなやり取りがあったのか、詳しい説明がなかったので詳細は不明だが、新憲法の内容にかなりの不満を持っていたのだろう。

政治史に関心のある方には興味深い内容の展示であると思う。

しかし、今回のテーマはこの特別展ではなく、憲政記念館内で出会った一人の人物だ。

川崎克胸像

憲政記念館の中には、日本における憲政の功労者である「尾崎行雄(咢堂)」の常設展示がある。

その展示室にあったのが、戦前の政治家・川崎 克の胸像だった。

実は2年前、芭蕉のふるさとである伊賀上野を訪ねた時、伊賀上野城を再建した人物として、川崎克の名前を聞いていた。

だから意外な場所での出会いに驚いたのだ。

ウィキペディアなどによると、
川崎克(1880・明治13年~1949・昭和24年)は伊賀上野の旧家に生まれた。

18歳の時、政治家を志し、同じ三重県出身の尾崎行雄を頼って上京。

尾崎の秘書などを務めた後に国会議員になったという人物。

克は大正4年の初当選以来、戦前に10回当選しているが、戦後は公職追放になる。
後を受けて代議士となった二男の秀二は、その後厚生大臣も務めた。

また孫の二郎も政治家となり、2005年に厚生労働大臣を務めている。

説明

像の下には、川崎克について、上のような説明があった。

説明の中にある伊賀上野城再建の落成式は、昭和10年10月。
川崎が54歳の時に行われた。

その建設に一体どれほどの費用が掛かったのか、確かな資料を見つけることはできなかった。

ウィキペディアには「私財を投じて」、他の記述では「書画骨董を売り払い」建設資金にしたと書かれている。

いずれも具体的な額は不明だが、相当な額であることは間違いないだろう。

伊賀上野城

私が伊賀上野城を訪れたのは2011年、

築城の名手・藤堂高虎の手によって城の大改修が行われてから、ちょうど400年の時が過ぎていた。

高虎は、慶長16年(1611)から城の大改修を行い、5層の天守閣を建設していたのだが、翌年に大暴風雨で倒壊してしまう。

その後、戦国の時代が終わり天下が安定したため、天守は再び建築されることなく、明治時代を迎える。

従って天守閣は、江戸から明治にかけて伊賀上野城にはなかったので、正確には再建とは言えない。

江戸時代、伊賀上野で生まれた芭蕉も、この天守閣は目にしていないことになる。

このため川崎は、建設した城を「伊賀文化産業城」と命名し、市に寄贈している。

その名の由来について

「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」と述べているという。

川端康成の書いた碑

下の濠から高さ30メートルも積み上げた高石垣のふちに、川端康成の言葉を記した碑が建っている。

若き横光利一とその生涯の友である川端康成、二人がこの高みに立ち、何を想い・何を歌っていたのだろうか。

翼賛選挙に反対した

これは、尾崎行雄が当時の東条英機首相などに出した抗議文。

昭和17年のいわゆる翼賛選挙は選挙干渉であり、官選議院を設定しようとするもので、憲法違反の行為だとする内容だ。

この時、川崎克も、尾崎と共に翼賛選挙に反対する運動を行っている。

川崎克が亡くなったのは戦後まもない昭和24年、満68歳だった。

日本の激動の時代に、確かな生きた証しを残した人生だったように思える。

「花押」が今も使われている

各大臣の花押


国立公文書館で、様々な歴史的な文書を見ていく中で、

「花押(かおう)」が、現在の大臣にとっても必須のアイテムであることを知った。


写真は、昭和31年(1956)7月23日に開かれた閣議で決定された政令案に、出席の閣僚が花押で署名したもの。

(政令案は、大阪、京都、横浜、神戸、名古屋の五大市が、政令指定都市となった際のもの)

ご存知のように、花押は、図案化された署名。

日本史に登場する有名大名の書状で見かけたことがあるが、現在も政府の閣議の中で生き続けているのをこれまで知らなかった。

政令指定都市関連

この閣議が行われた当時の内閣総理大臣は、鳩山一郎。

外務大臣の重光葵、大蔵大臣の一万田尚人、北海道開発庁長官(科学技術庁長官なども兼務)の正力松太郎の名前などが見える。

名前の下にある署名が花押で、ウィキペディアによれば、

「政府閣議における閣僚署名は、明治以降花押で行うことが慣例となっている。

多くの閣僚は、閣僚就任と共に花押を用意することが多い」

と説明されている。

防衛庁長官であった船田中など一部の閣僚以外の花押は、底辺が横一文字のいかにも花押らしい花押が並んでいる。

閣議は、今も、毎週火曜・金曜の午前に開かれているから、こうした花押による署名は、ごく日常的に行われていることになる。

首相官邸のホームページには、定例閣議日ごとの案件が記されているが、その件数はかなりの数にのぼる。

各閣僚は、案件の数に比例して、花押を書いているということになる。

秀吉の花押

これは豊臣秀吉の花押。

ウィキペディアによれば、

このデザインは、どうやら「悉(しつ)」という字から来ているらしい。

秀吉を音読みして「ゅう き

そのはじめの「し」と、最後の「つ」をあわせた「悉」に由来するという説があると紹介されている。

花押の作り方については、平安時代の頃は実名の草書体のものからはじまったようだが、戦国の世になると必ずしも実名をもとにして花押が作られなくなったという。

文字ではなく、絵などを図案化したものもあり、他人が見て「意味」が解るとは言い難い。

家康

こちらは徳川家康の花押。

上下に並行した横線を2本書き、中間に図案を入れたもので、明朝体といわれるとのこと。

明の太祖がこの形式の花押を用いたことに由来するといわれ、徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となったという。

秀吉や家康の時代には、文書の真正さを権威づける役割を果たした花押だが、現代では登録した印鑑にとって代わられている。

しかし閣議案件での署名だけでなく、企業内での稟議など、「認め」の意味の署名には有効だから、花押をもう少し暮らしの中で活用したらいいのにと思う。

例えば、庶民は「回覧板」の確認や、宅配の受け取りに、

有名人は、色紙のサインに活用するなどしてもよさそうだ。

三文判を使うよりは、おもしろそう。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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