赤穂浪士の故郷を訪ねる

2月27日 飛行機から富士山が見えた

2月27日、姫路城マラソンにエントリーしていたので、姫路に向かった。

ひざを痛めて、走るのは絶望的だが、奇跡的に回復して走れるかもしれない。

参加は無理でも、姫路城をはじめいくつかの名城を訪ねてみればいいと、朝9時発の伊丹行きの飛行機に乗ったのだった。

富士山頂の雪はだいぶ少なくなり、春近しを感じさせた。

奥にうっすらと見える日本アルプスの山々も、山頂近くにわずかに雪を残すだけになっていた。

JRを乗り継いで赤穂へ

伊丹空港から三宮までは高速バスに乗り、そこからはJRの快速で終点の播州赤穂駅に向かう。

姫路で、マラソンの受付をする前に、赤穂浪士の故郷・赤穂を訪ねようと思ったのだ。

赤穂浪士の墓がある東京高輪の泉岳寺は、私の中学校からほど近いところにあり、毎年12月14日に行われる義士際には若いころから何度も足を運んでいた。

朝7時に現在住んでいる東京江東区の家を出てから、赤穂駅に着くまで6時間もかかった。

江東区といえば、義士たちが討ち入り決行直前に集まったのが深川八幡(今の富岡八幡宮)前の茶店というから、多少の縁を感じる。
(元禄15年旧暦12月2日、討ち入りの12日前のこと  注:以下、討ち入りの細部・詳細は「ウィキペディアの「赤穂事件」を参照している)

赤穂浪士たちの時代は、江戸に行くには自分の足だけが頼りだった。

赤穂から江戸まで、JRの距離でも700キロ近くあるから、歩いていけば健脚の人でも20日はかかる。

本懐を遂げるまでには様々な困難・苦労があっただろうが、現代人にとっては江戸に歩いて行くだけでも大変なことと実感。

播州赤穂駅前

かつて塩づくりで知られた土地柄を物語るように、赤穂駅前には温暖な風景が広がっていた。

平成28年現在の赤穂市の人口は、およそ5万人。

駅での乗り降りの人は少なく、静かだった。

駅から城跡を目指す

駅から赤穂城までは1キロ弱、沿道には城下町を意識した土産物屋さんや飲食店が続く。

塩田の写真

駅前には赤穂藩がつくった江戸時代の上水道の遺構があったが、かつての塩田を思い起こさせる風景は付近に見当たらなかった。

見たのは、お蕎麦屋さんのウインドウに飾られた、昔の塩づくりの写真だけだった(昭和と書かれていたから、それほど大昔の風景ではないだろう)

大手門

20分近く歩いて大手門にやって来た。

赤穂藩が取り潰しになり、幕府の使者に城を明け渡す映画のシーンが、脳裏に浮かんだ。

大石良雄邸長屋門

大手門を入ると二の丸、大石内蔵助邸の長屋門が今も残っている。

元禄14年の旧暦3月14日(新暦では4月21日)、江戸城・松の廊下での刃傷事件を伝える早駕籠が江戸を出発したのはその日の午後3時半ごろ。

それから4日半後の19日午前5時半ごろ、江戸からの使者がこの門をたたいたという。

片岡源吾右衛門宅跡

大石邸から程近いところに、「片岡源吾右衛門宅址」と書かれた石碑と案内板が立っていた。

説明板には、このように書かれていた。

説明版

説明の前段には「源吾右衛門は内匠頭と同年齢で、幼いころから君側に召し出された寵臣であった」とあるから、幼馴染に近い主従関係であったのだろうか。

切腹直前に顔を合わせた二人は、「主従ともに声なく、今生の別れを惜しんだ」との説明が切ない。

天守台から見る

天守台から、本丸内の表御殿址を写した写真。

赤穂城は、明治初めの廃城令によって廃城処分となり、大蔵省が売却用財産として処分するものに区分された。

このため多くの建造物は取り壊され、昭和の初めからこの場所には旧制赤穂中学の校舎が立っていた。

しかし、昭和46年には国の史跡に指定され、その後、本丸庭園などが国の名勝に指定されたりして、城の復元整備が進んでいる。

本丸内、表御殿

幕府からの城明け渡しの命にどう対応するか、

赤穂藩の300人余りの藩士たちが、1か月近くものあいだ、この場所で評定を重ねた。

熊本・細川藩下屋敷跡・切腹場所

討ち入りの翌年、元禄16年2月4日(新暦 3月20日) 義士たちは、武士として切腹することになる。

この写真は、以前も紹介したがもう一度見ていただきたい。

ここは、港区高輪にある大石内蔵助はじめ17名が切腹した場所。

切腹からちょうど400年を数える2003年3月、特別に公開されたときに写したものだ。

熊本細川藩の下屋敷の庭だったところだ。

ここで切腹の義士の名前

この中には、前述の片岡源吾右衛門や、堀部安兵衛を婿養子とした堀部弥兵衛の名前も見える。

碑の言葉

入口には、こんな説明も掲げられている。

古くから赤穂浪士が、日本人にとっての「正義」「名節」の一つの手本となってきたことは間違いないだろう。

庭先

そして、切腹場所の庭先。

熊本細川藩は庭先に、最高の格式である畳3枚を敷いて対応したのだと、ウィキペディアに書いてあった。

梅が咲き始めた赤穂城

2月27日、赤穂城本丸では梅の花が見ごろを迎えようとしていた。

もう春も近い。


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「忠臣蔵」義士祭の人出


12月14日は義士祭

12月14日は「義士祭」。

赤穂浪士が本所・吉良の屋敷に討ち入りをした日として、年配の人ならほとんどの人が知っている日付だ。

(元禄15年・1702年12月14日、これは旧暦だから太陽暦では1703年1月30日とのこと。
更に実際の討ち入りの戦闘は明け方だから、日付は旧暦で12月15日、新暦では1月31日ということになる)

私も四十七士の墓のある泉岳寺の近くの中学校に通っていたため、義士祭の当日には若い頃から何回も行っている。

今年は、たまたま別用で泉岳寺前を通ったところ、大勢の人出。

そうか、今日は義士祭だと気付いて、境内を覗いてみた。

土曜日ということもあってか、相当の混みようだった。

参道の土産物店もかき入れ時

義士祭以外の日は、お参りの人は数えるほどで、参道はいたって静かだが、この日ばかりは様子が違う。

お店の人も、討ち入り衣装の半纏を着て、とても忙しそうだった。

本堂前はお参りの人の列

中村錦之介、東千代之助、片岡知恵蔵、市川歌右衛門、大友 柳太朗 等々、昔の東映時代劇を見ながら育ってきた世代の人で、忠臣蔵、大石内蔵助、浅野内匠頭、という言葉を知らない人は皆無に近いのではないか。

ところが、先日、高校生と話す機会があり、「浅野内匠頭」の話をすると「知らない」とのことだった。

12月といえば、映画もテレビも「忠臣蔵が欠かせない」という時代があった。

そればかりか、講談、浪曲、そして三波春夫の歌謡浪曲と様々な忠臣蔵ストーリーが、12月になると世の中にあふれた。

時代が移り、近ごろでは12月になっても忠臣蔵の露出が激減したので、「さぞ、お参りの人出は減ったのでは」と思ったのだったが、そうではなかった。

この日は、本堂でお参りする人の列が長く続いていた。

本堂に掲げられている幕に描かれた家紋は、左が大石内蔵助の「痩せ右二つ巴紋」という紋どころ。

右は、赤穂藩浅野家の「丸に違い鷹の羽紋」だ。

写真左手の方に進むと、浅野内匠頭と夫人の瑤泉院、そして大石内蔵助以下赤穂浪士の墓があるのだが、この日は大変な混みようで、この日は墓所まで行くのをあきらめてしまった。

「まだまだ、忠臣蔵のファンは沢山いるのだなあ」と思いつつも、「これまで通りの人気が続いてゆくのは難しいのではないか」と思いながら、泉岳寺を後にした。

赤穂浪士の扮装の一団

その後、第一京浜から日比谷通りに入って、芝公園近くまで来ると、何やら時代劇の装束に身を包んだ一団が前方からやってくる。

先頭を歩いているのは、どうやら「大石内蔵助」のようだ。

後ろには、赤穂浪士の一団が続いている。

先頭の大石内蔵助さんに「これから泉岳寺に向かうのですか?」と声をかけると

「一緒に行きませんか」との返事。

「今、泉岳寺から帰ってきたばかりです」と話して、同道はご遠慮申し上げた。

恒例のパレード

行進をしている人が掲げる幕には「財界二世学院」と書いてある。

去年の義士祭の日、泉岳寺から本所・松坂町の吉良邸跡まで走ったのだが、その時、中央区役所の前に集合し、これから出発しようという「財界二世学院」の人たちと出会ったことを思い出した。

「財界二世学院」とは、その名の通り財界人の二世のための教育機関であったようだが、今の活動については、ネットで調べたのだが、よくわからなかった。

ただ、このパレードはすっかり恒例になっているようで、泉岳寺のホームページにも、行進の到着時間が掲載されていた。

沿道の人も大喜び

沿道の若い女性は、いかにも楽しそうな表情で、この行進を見送っていた。

ただ、この日比谷通りは明治時代に出来た道路で、江戸時代にはなかった。

財団法人 中央義士会が監修した「赤穂浪士の引き揚げ」という本には、赤穂浪士の一団は、日比谷通りから一つ海寄りの、第一京浜などの道を通っていると書かれている。

せっかくなら赤穂浪士たちが、実際に引き上げた道を歩いたらいいのにと思った。

忠臣蔵を逆走する②永代橋~本所

安兵衛の碑


2012年12月14日、義士祭の日に、泉岳寺から本所・吉良邸跡まで走ったが、今回は永代橋から本所までの報告になる。

赤穂浪士の一行が引き揚げの時、隅田川を渡った橋は永代橋。

永代橋の近く、中央区八丁堀の亀島橋のたもとに「堀部安兵衛武庸(たけつね)之碑」がある。 

安兵衛は、元禄7年、討ち入りから8年前には現在の八丁堀1丁目に住んでいたという縁から地元の人たちによってこの碑が建てられた。

安兵衛は、ここに暮らしていた当時、高田馬場の決闘の助太刀で男を上げ、浅野家家臣・堀部弥兵衛に見込まれて婿に入り、赤穂浪士の一員になったことはよく知られている。

ここは、義士が引き揚げのときに通った道ではないが、引き揚げのコースからほど近いところ。

永代橋付近は、安兵衛にとっても懐かしい地であったに違いない。

引き揚げコースを歩く人たち

永代橋のたもとに来たとき、江東区側から渡ってきた一団とすれ違った。

赤穂浪士の引き揚げの道を歩く人たちだと思い、声をかけると「そうです」と答えてくれた。

若い女性の姿も目に付いた。

中央義士会監修の「赤穂義士の引き揚げ」という本には、「吉良邸から泉岳寺までの距離は11キロ、義士たちは2時間もの戦闘後、12キログラムの武具を身に着けて雪解け道を3時間弱歩いたのです」との記述がある。

なかなかの距離だが、体験して実感するのも面白い。

永代橋を渡る

永代橋を渡り、深川へ。

ここからは、隅田川の左岸を北上して、両国橋に向かう。

芭蕉記念館

その途中、新大橋の近くで、江東区芭蕉記念館が右手に見える。

堀部安兵衛の高田馬場の決闘があった元禄7年2月には、まだ芭蕉はこの付近に住んでいた。

しかし、その年の5月に江戸を立ち、10月大阪で亡くなっているから
元禄15年の討ち入りは、芭蕉の死後しばらくたった後の話になる。

両国橋のたもと

両国橋のたもとにある「赤穂浪士休息の地」の案内板。

浪士たちは、討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に、ここで休息をした。

大名との無駄な衝突を避けるために、江戸城への登城路であった旧両国橋を渡らなかったのだという。

ここまで来れば、吉良邸はもう間もなくだ。

吉良邸あと

旧吉良邸の一部を公園にした「本所松坂町公園」。

泉岳寺ほどではないが、いつもよりたくさんの人が訪れていた。

面積は約30坪、討ち入り当時の敷地2500坪の80分の1ほどしかない。

吉良せんべい

近くのお菓子屋さんが、道路脇で「吉良せんべい」なるものを売っていた。

さすがに、このあたりでは「吉良は、悪役というより地元の有名人」という扱いのようだ。

吉良邸前に

これまで吉良邸には何度も行ったが、道路の反対側に、葛飾北斎に関係する案内板ができたのに気が付いた。

こんな看板が

葛飾北斎の養父であった中島伊勢という人物の住居跡が、ここにあったというのだ。

葛飾北斎の出生については、不明な点が多く、はっきりしたことは分からない。

しかし、説明の中に、「葛飾北斎は吉良方の剣客・小林平八郎の孫」という説があるとして、次のように書かれている。

吉良の家来たち

「飯島虚心の『葛飾北斎伝』によると”北斎の母親は吉良方の剣客・小林平八郎の娘で、中島伊勢に嫁いでいるとしています”」

つまり、北斎は小林平八郎の孫ということになる。

もし、これが事実であれは、とても面白い「忠臣蔵外伝」の一つになるのだが、説明にはこう付け加えてある。

「この話は、北斎自身が広めたようです」

さて、事実はどうなのか。

その説を補強する記事、資料はネット内で見ることはできなかった。残念。

泉岳寺から本所松坂町へ①


墓所へ

12月14日は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日。
(新暦だと翌年・1703年1月30日とか)

例年この日に、泉岳寺では「義士祭」が行われている。

今年の人出はどうだろうか、赤穂浪士の国民的な人気に変わりがあるのか、ないのか、
それを確かめに、泉岳寺まで走った。

そして、そのあとは討ち入りとは逆に、本所松坂町の吉良邸まで走ってみることにした。

途中、沿道でどんな忠臣蔵のシーンと出会うのか、楽しみに走った。

ここは、泉岳寺の赤穂浪士と浅野内匠頭、瑤泉院の墓所に向かう道。

今年もたくさんの人たちがお参りに来ていた。

線香の煙

墓所の中は線香の煙で、白くなっている。

ここには討ち入りに参加した四十七士と、親との板挟みで自死を選んだ萱野三平の、合わせて四十八の墓がある。(詳しくは2011年11月12日のブログ「赤穂浪士の墓所に48の墓がある」
http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20111112.html をどうぞ)

赤穂浪士の人気はまだまだ根強いものがあるのだと再確認した。

それでは、これから赤穂浪士たちが通った道をおおよそ辿って、「本所松坂町」を目指すことにしよう。

高輪大木戸

泉岳寺を出て、第一京浜を北へ、田町、新橋方面に向かう。

数百メートルも行くと、右手に高輪大木戸が見えてくる。

ここからは江戸府内だ。

御田八幡宮

しばらく行くと、左手に「御田八幡神社」が見えてくる。

ここは赤穂浪士の引き揚げの際、一つのエピソードがあった場所だ。

それは、浪士が本懐を遂げてここまで来たとき、討ち入りの仲間を離れた高田郡兵衛という人物が、祝いの酒を持って現れたのだが、浪士たちから罵声を浴びて追い返されたというのだ。

この高田郡兵衛という人は200石取りで江戸詰、槍の達人といわれ堀部安兵衛らとともに仇討の強硬派だった。

大石内蔵助が、お家再興を第一に討ち入りに消極的だった時には、強く仇討を迫ったほどだった。

ところが、郡兵衛を自分の養子にしたい旗本の叔父に討ち入り計画を知られてしまう。

叔父は、一族に累が及ぶと討ち入りに猛反対、計画を訴えるといわれて止む無く脱盟したのだった。

泉岳寺

赤穂浪士たちを迎えた郡兵衛の格好は、麻裃姿の正装だったという。

その後、一行が泉岳寺に到着して休息しているときにも、郡兵衛は酒樽を持って面会を求めてきたが、同じように冷たく扱われたという。

「その後の郡兵衛がどうなったか」だが、養子に入った旗本家の家督を郡兵衛が継ぐことはなかったという。

その理由として

「赤穂浪士が英雄化されるにおよび、脱盟した郡兵衛の評価が地に堕ち、追放したとみられる。
その後の消息は不明」と、ウィキペディアには書いてあった。

歌舞伎座から永代橋へ

新橋から第一京浜を右に入り、永代橋の方に向かう。

途中、建設町の「歌舞伎座」の建物も見えた。

中央区役所前

浪士の引き揚げコースとは少し違うが、中央区役所の前に来ると、

なんと「義士祭パレード」の人達と出会った。
皆さん、本格的な扮装をしている。

これから、泉岳寺に向かうという。

東京臨海地域開発研究会というNPOの人達を中心とするグループの人達だ。

吉良上野介を発見した「間十次郎」のいでたちをした人は、槍に御印をつけるという凝りようだった。

「まだまだ、東京の下町に『忠臣蔵』は生きていた」というのが実感だった。


次回は、吉良の屋敷までのジョグで見たものを紹介する予定。

それでは。

忠臣蔵の現場~復元・洗足の井戸


日消会館

港区虎ノ門にある日本消防会館。

消防関係の機関、団体が入っているビルだ。

今回の忠臣蔵の現場はここの1階にある。

昔の消火ポンプ

ビルの中に入ると、昔、消防活動に活躍したポンプ車などが何台も展示されている。

近代消防のポンプ車と比べると、何とも非力に見える。

そして、この左側に、義士ゆかりの「洗足井戸」をイメージしたモニュメントが作られている。

洗足の井戸

これが、「洗足の井戸」をイメージしたモニュメント。

そもそも「洗足の井戸」とは、何なのかをご説明しよう。

ここは赤穂浪士が討ち入りをした元禄の頃、時の幕府大目付・仙石伯耆守久尚の屋敷があった場所。

元禄15年12月15日払暁、見事宿願を果たし、本所松坂町から高輪泉岳寺へ一行が凱旋する途中、

大石内蔵助は2名を、自訴(自首)のため仙石伯耆守のもとへ差し向ける。

62歳の吉田忠左衛門と33歳の冨森助右衛門だ。

その二人が、邸内にあった井戸で洗足し、座敷に上がったという史実をもとに作られたものだ。

現在の地図

仙石邸でのやり取りが、どんなものであったのか。

「赤穂義士の引き揚げ」(財 中央義士会監修)から見てみよう。

二人は内玄関で取次ぎに

”「私共は浅野内匠家来の浪人です。兼ねてよりご存知と思いますが、上野介殿は亡主内匠の敵にございます。

昨夜、吉良邸に推参し、ただいま泉岳寺へ引き揚げております。

何分にもご指図をお願いします」”

と申し上げれば、伯耆守、さっそくに内玄関に出てこられ(中略)

”「して、上野介は討ったのか」と質したので、忠左衛門は
「確かに御印頂戴仕りました」と答えた。

伯耆守は家老に

「これから急ぎ登城致す故、二人からことの事情を聴きだすよう。

それから、二人が休息している間に、衣服の着替えを用意するように」と指示を出した。

二人はここで足を洗うことを許され、、そのための湯も出されたようである”

江戸の地図

これは江戸後期の安政3年(1853)の地図。

仙石家は幕末も、討ち入りがあった時と同じ場所に屋敷を構えていた。
仙石治兵衛と書かれたところが仙石邸、現在の日本消防会館がある場所だ。

浪士たちの自首を受けてその後、幕府評定所で仙石伯耆守久尚を含む、大目付、町奉行など14人によって赤穂浪士の処分について議論された。

ウィキペディアによると、その結果

”久尚はじめほとんどの評定所参加者が浅野寄りであったため、12月23日に老中へ提出された評定所の最終的意見書は

『(上野介の孫で養子の)吉良義周は切腹、吉良家の家臣で戦わなかった者は侍ではないので全員斬罪、吉良の実子上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。

浅野遺臣たちは真の忠義の者たちであるので、このままお預かりにしておいて最終的には赦免するべき』という大変浅野贔屓な内容となった。

これに対して、
本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮する。

これを受けて学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張、

荻生徂徠は『浪士の行為は、義ではあるが、私の論である。
長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない』と主張した。

結局、この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた”とのことだ。



プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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