深まる秋を走る~酉の市・運慶展


波除神社

11月6日、築地市場から隅田川沿いを走った。

市場の近くの波除神社前まで来ると、ふだんは暗い境内がいつになく明るい。
この付近は、仕事で朝が早いので、夜の静寂が訪れるのも早いのだ。

それは、この日に「一の酉」が開かれていたからだ。

ウィキペディアには「縁起の熊手を売る年末の風物詩」と書かれているように、酉の市と聞くと、そろそろ今年も残り少ないと思う。

この日は、神社内の威勢の良い「手締め」を聞きながら、参道に通じる道を西に向かった。

銀座うかい亭

ここは、「銀座うかい亭」の前。

前の日に日本を訪れたトランプ大統領が、安倍首相と夕食を共にしたレストランだ。

いつも、この店の前を通るたびに、私には縁遠そうと思っていた店だった。

同じく前の日に川越のゴルフ場で食べたハンバーガーは、我が家の近くにあるお店の品物。前を通ったが相変わらずの列だった。

値段は1200円と、ハンバーガーにしては高いとは思いつつ話のタネに食べてみるかと思っていたのだが、TVで報じられて以来、お店は長蛇の列。

実は何回か、写真を撮ろうと店の前まで行くのだが、並ぶ人の顔を撮るのはプライバシーの関係からまずいと思い、シャッターが切れずにいる。

12日の日曜日も、前を通ったが相変わらずの長い列だった。

こちらもしばらくは、縁遠くなりそうだ。

運慶展へ

10日、上野の国立博物館で開催中の「運慶展」に行った。

平日の10時過ぎに博物館に着いた時には、すでに長い列。

40分待って入場したが、待つ価値は十分にあった。

内部は写真撮影ができないので紹介はできないが、特に興福寺所蔵の四天王立像には大変感動した。

特に、四天王の手の甲にくっきりと浮かび上がった血管の力強さ。

圧倒的な存在感と迫力を感じた。

国宝の太刀 備前長船

博物館に行くと、毎回楽しみなのは、常設展。

一部の展示品をのぞき、フラッシュをたかなければ撮影はOK。

これは、国宝の太刀「長船 景光」。運慶から100年余りたった鎌倉時代後期の作。

若い女性の間で「刀剣女子」が増えていると聞いていたが、この展示場所でも、熱心に写真を撮る和装の若き女性の姿を見かけた。

正装の男子

これは、古墳時代6世紀の埴輪「正装の男子」。

教科書に載っていたものに出会うとうれしいものだ。

噴水前広場の造形物

博物館の前に広がる噴水前広場には,いつもはない建造物が建てられていた。

「芸術の秋」ということで、上野地域のあちこちで「上野文化の杜 TOKYO数寄フェス」が始まろうとしていた。

この付近は、江戸時代末まで、寛永寺に向かう参道であり、文殊楼という山門があったという。

その後、明治9年に日本初の公園として上野公園が開園。

以来、博物館や動物園など多くの文化芸術拠点が、世界でも例を見ない集中するエリアになっているのだという。

なので、その上野から日本文化と芸術を世界に発信しようというのがその狙いらしい。

藝大学園祭のみこし①

これは何だろう?と近づいてみると、「みこし」だという。

近くにある東京芸大の美術部と音楽部に、今年度入学の学生がつくったもので、全部で3基。

学園祭である「藝祭」で展示されたもので、それなりに面白い。

藝祭フェスみこし②

あとの2基の「みこし」はこちら。

左手のみこしは、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」を思い起こさせる。

右奥に小さく見えるのは、巨大なオートバイが岩の上に乗り上げている。
意味は分からないが、おもしろい。

確かに、上野の山には文化の香りがする。

そして、今年も立冬を過ぎ、暦の上では冬を迎えた。

年賀状の準備をしなければならないし、今年もこうして「あっという間に」年も暮れていくのだろう。
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新島襄の生誕地

小石川後楽園

京都の紅葉を見たあと、都心の紅葉を見ようと走って訪ねたのは「小石川後楽園」。

徳川光圀(黄門)のころに完成した水戸藩の名園だ。

去年、紅葉のころに訪ね、京都にも負けない見事な景色を堪能した。

去年は12月になって訪れたのだが、今年は11月下旬の訪問で、見頃には若干早かったようだ。

更に、園内では、各所で工事が行われていて万全ではなかったが、それでも天下の名園に恥じない紅葉の風景が楽しめた。

ちょうどこの写真では、池の魚がジャンプしていた。

アップにしてみるとこんな具合。

魚が跳ねる

魚も水面から伸び上って、紅葉を鑑賞しようとしているようだ。

紅葉

太陽の光を浴びた紅葉が、きらめいて美しかった。

皇居内堀沿いの緑地

後楽園を後にし、次は皇居の方に向かう。

内堀沿いの皇居外苑では、黄葉と青空のコントラストが絶妙だった。

日比谷通り

そして日比谷通りへ。

帝劇から明治生命館前のイチョウも黄色く色づき、通りを隔てた柳の緑と対になった風景が面白い。

学士会館

そして、皇居の周辺、一ツ橋付近の学士会館前を走っていると

会館の横に碑が建っていて、女性がじっと見つめている。

近くによって写真を撮るとこんなふうだった。

新島襄生誕地

碑には

「天保十四年 新島襄先生 生誕之地
            門人 徳富正敬」とある。

新島襄は、上州安中藩の江戸屋敷のあったこの地で生まれている。

新島襄誕生地の碑文

門人 徳富正敬とは、新島の同志社英学校に学び、明治期の弁論人として盛名をはせた徳富蘇峰のこと。

碑の横に書かれた説明には、次のように記されている。

”京都同志社の創立者 新島襄先生は、1843年(天保14年)上州安中藩主 板倉伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた 先生は幕末における国家多難の際、我が国の前途をうれい キリスト教の信仰と海外事情研究を志して 21歳(1864年) 函館よりひそかに脱国,米国に渡航し(一部略)キリスト教文化の根本を体得せられた。

母国日本の隆盛を図るためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が「知識あり、品位あり、自ら立ち、自ら治め」うるものであり、「良心の全身に充満したる丈夫」となることによって、その目的を達しうるものであることを痛感せられた。

留学10年、1874年(明治7年)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建て、キリスト教をもって徳育の基本とした教育のために、その生涯を捧げられた”

新島と八重

ちょうど今、大河ドラマ「八重の桜」で新島襄の人生が紹介されているところ。

碑文に見入っていた人は、そんな背景もあって、熱心に見入っていたのかもしれない。

ウィキペディアを見ると

新島襄の本名は 新島七五三太(しめた)だったが、アメリカへの渡航中の船長からJoeと呼ばれて以降、「じょう」と名のったという。

新島襄がアメリカで入学した名門のアマースト大学では、後に札幌農学校で教えることになるウイリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けている。

クラークにとって襄は初の日本人学生であり、この縁からクラークは来日することになったと書かれていて、このあたりのつながりも興味深い。

ウィキペディアに、新島襄とその妻・八重の写真があった。

新島襄は、アメリカの友人への手紙に
「彼女は見た目は決して美しくありません。ただ、生き方がハンサムなのです」と書いたとのこと。

研究社の英和辞書には、女性にハンサムという場合は

「大柄で魅力的な、押し出しの良い」という意味合いだと記されている。

襄にとって八重は、自立する心を持った魅力的な女性であったことがうかがえる。


さて同志社が設立されてから、今日11月29日で、ちょうど138年。

今回偶然、大河ドラマの放送中に、新島襄の誕生の地を知らせる碑に出会った。

そして、その場所が学士会館の敷地内というのも面白い。

というのも、学士会館は、北大、東北大、東大、名古屋大、京大、阪大、九大の旧七帝大出身者の親睦と交流を目的とした施設。

私学を代表する大学の一つ・同志社の創立者が生まれた場所が、今は学士会館になっているところに、歴史のいたずらのようなものを感じたのだった。

達成!「地球一周分のラン」

年度別走行距離

ジョギングを始めて今年で27年目になる。

そして今年10月10日、49年前に東京オリンピックの開会式が行われたスポーツゆかりの日に、走行距離4万キロを達成した。

4万キロというのは地球1周分の距離で、走り始めた当時からの目標だったが、ついに達成できた。

走り始めたのは、我が子の運動会で走った際に足がもつれ、これはいかんと思ったことがきっかけだった。

以来ずっと走り続けているが、暫くの間は年間で800キロ程度、月間では60キロほどの走行距離だった。

その後は少しずつ距離が伸びたとはいえ、仕事に追われ、月に100キロ走るのが精いっぱいだった。

退職後はベースアップ

走行距離が大幅に増えたのは退職後だった。

お金がかからない上に健康にもよいので、「走り」が生活の中心となり、年間の走行距離は3000キロ前後にも増えた。

そして、その練習量をバックに、還暦の歳からフルマラソンに挑戦をはじめた。

ウルトラゴール

福島県内で行われた60キロ余りのウルトラでは、10時間の制限時間ギリギリにゴール。
大きな達成感を味わうことができた。

しかしその帰り、最寄駅から家まで歩くのがままならず、足を引きずってたどり着いたことを懐かしく思い出す。

この時は、両足の親指が「血まめ」になり、しばらくは「ペディキュア」をしたようになってしまった。

フルマラソン以上のレースの挑戦は、来月の神戸マラソンで10回目を数える。

走る時はいつもカメラを離さず、出会った風景を記録してきた。

そして、その様子をこうしてブログに書くことで、「走る」力にすることができた。

その副産物として、走った日本各地の素晴らしい風景を写真に収めることができ、それらは私の大切な宝となっている。

その中から、四季ごとに一枚の写真をご紹介しよう。

大横川で

春。桜の美しい風景に各地で出会っているが、これは桜の下で春眠をむさぼる若人の写真。

ここは江東区・門前横丁に近い大横川、桜の名所だ。

近くの東京海洋大学のボート部の学生たちが、満開の桜の下で気持ちよさそうに眠っていた。

「季節の春と人生の春」、二つの春を感じたことで印象深い。

隅田川沿い

夏。7月、夕立のあと虹があらわれた。

隅田川沿いの風景が美しかった。

富士山

秋は富士山。

去年11月、富士山マラソンを走りながら撮ったもの。

こんな美しい景色が見えると、走る力をもらう。

疲れを忘れて、元気になるから不思議だ。

石川門付近

冬。金沢城・石川門近くの冬景色。

走っているときに雪が激しくなった。

とても幻想的だった。

走っていると、いろいろな風景に出会えるので、疲れを忘れさせてくれる。

だから、走る時にカメラは欠かせない。

最後に、「4万キロ達成」の追記をひとつご紹介したい。

一等に当選

「4万キロ達成」の翌日、「みなと区民まつり」に立ち寄り、福引を引いたところ、なんと一等賞に当選。

ごらんの自転車が当たったのだった。

生まれてからこの方、宝くじをはじめ抽選で1等賞をとったことなど一度も無かったのに。


そんなことでこの幸運は、「走りの神様」からのご褒美なのかもしれないと、思ったりもしている。

東京環状2号線を走る

道路地図

東京都のホームページに載っている「東京都市計画道路・環状2号線」に関する道路地図。

説明によれば、

起点は、江東区有明2丁目、終点は千代田区神田佐久間町1丁目、
総延長13.95キロ、標準幅員40m。

このうち虎ノ門から江東区の豊洲大橋までが未開通区間(平成5年に、新橋から有明までの延伸が決定)と書かれている。

つまり、現在工事が行われている区間は環状線ではなく、虎ノ門から新橋を経て有明までほぼ直線的に伸びる道路部分ということになる。

私は、現在工事が行われている虎ノ門~新橋間の工事が完成すると、環状2号が完成するのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。

現在の外堀通りを経由することで、環状2号線は新橋から神田までつながっているから、今行われている工事は、あくまでも環状2号と湾岸道路を結ぶもののようだ。

新橋~佐久間町

これが、現在の環状2号線。

外堀通りを、新橋の土橋から北上、東京駅前を通り、昌平橋に至ることで環状道路は完結している。

この環状道路のうち、虎ノ門の特許庁前から道路が南に分岐し、有明に向かう道路が現在建設されていることになる。

思い込みで走ったコース

これが、今回私が「環状2号線」を走ったコース。

但し、新橋から神田までは、環状2号より一つ外側を通る「昭和通り」を走っている。

というのは、環状2号線は新橋から昭和通を北上して神田佐久間町に至る路線と、私が思い込んでいたからだ。

秋葉原の線路下

ということで、この日は、新橋から北上し、昭和通りを秋葉原駅の手前で左折、昌平橋のほうに向かう。

このJRの架道橋は、「佐久間架道橋」と書かれていた。

これから、新橋に向けて、反時計回りで走ってゆく。

湯島聖堂

更に進むと、右手に湯島聖堂が見えてきた。

徳川幕府の学問所「昌平黌」が置かれたところだ。

御茶ノ水駅も近く、左手には神田川が流れている。

神田川沿い

上り坂を走り、ふと川面を覗くと、はるか下に遊覧船が見えた。

沢山のお客をのせて、神田川を上って行った。

こんな若者も

暫くすると、水上オートバイに乗った若者たちが、白波を蹴立てて川を上って行った。

外堀沿いを走る

この後は、水道橋、飯田橋、市谷、四ツ谷、ずっと外堀に沿って走ることになる。

これは飯田橋近くの外堀で見かけた看板。

1918年(大正7)創業のボート場が今も営業を続けている。

水質浄化活動を続けてきた結果、2009年には、この堀で蛍が生まれるまでになったと書いてあった。

迎賓館

四ッ谷を過ぎて赤坂見附に向かう。

右手に迎賓館が見えてくる。

都心ながら、この付近の交通量は多くはなく、いつ来ても閑静な環境だ。

赤坂見附交差点

紀国坂を下り、赤坂見附の交差点に。

かつて高速道路の向こうに建っていた赤坂プリンスの姿は今はなく、心なしか空が明るい。

特許庁前

総理官邸を過ぎ、溜池を過ぎると特許庁前に来る。

虎の門病院の前を右に入る道路のところまで来ると、建設中の虎ノ門ヒルズが見えてくる。

建物の中を道路が走る

近くに行くと、驚くほど大きな建物だ。

建物の中を道路が走ることになっている。

このように、道路の上下の空間に建物を建てたり、道路と一体構造の建物を建築可能とする制度を「立体道路制度」と言って、1989年に法律が作られた。

このことで、道路管理者は、道路区域の部分だけを取得すればよく、土地を取得しなくてもよくなった。

一方、道路建設予定地で暮らす人たちは、道路上の建物に入居することで生活が継続できるようになった。

そして、これまでの土地権利者が再開発ビルの床を対価として取得する以上の床が生まれた場合、その部分を分譲したり賃貸したりすることが出来るようになった。

これで事業費をまかなうことで、土地取得費用が大幅に減少したのだという。

北海道に襟裳岬という有名な岬がある。

島倉千代子さん、森進一さんの歌った名曲でよく知られているが、その襟裳岬に通じる道路は、昔「黄金道路」と呼ばれていた。

難工事で建設費が嵩んだことから、そのように呼ばれていた。

この環状2号の虎ノ門~新橋区間は、都心の一等地だけに、はるかに巨額の建設費がかかると思っていたのだが、この制度のために大幅に抑えることができたという。

この先は有明に通じる道

新橋近くの、第一京浜と環状2号の工事個所が交差するところ。

前方に見えるJRの線路をくぐると汐留、更に進むと築地市場、そして有明の湾岸道路へと続く。

2020年の東京オリンピックに向けて、この先の道路周辺は、間違いなく、驚くほどの変貌を遂げてゆくはずだ。

春の名残をいかんとやせむ~浅野内匠頭を走る


辞世

ソメイヨシノの開花を受けて、浅野内匠頭の辞世を思い出し、ゆかりの地を走ることにした。


”風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残をいかんとやせむ”

「風に誘われて散る花、その花よりも春の名残が惜しい私。その思いを一体どうしたらいいというのだ」

浅野内匠頭長矩が、江戸城松の廊下で吉良上野介義央に切り付けるという刃傷事件を起こしたのは、元禄14年(1701)3月14日。

現在の暦に直すと4月21日なので、どちらかといえば桜の時期は過ぎている。

しかし新庄節には「花が咲いたと都の便り、こちら雪じゃと返す文」という文句もあるし、弘前の桜は普通は大型連休の時期だから、よしとしよう。

明石町

ここは中央区明石町の聖路加看護大学校の一角。隅田川右岸から、それほど遠くはない。

碑には「浅野内匠頭邸跡」と記されている。

浅野家の上屋敷があった場所だ。

案内板

播磨赤穂藩・浅野家の屋敷は現在の聖路加国際病院を含め隅田川まで続く土地にあり、その広さは8900坪余りあったという。

そして、この碑のすぐ右手には、こんな案内板も建っていた。

芥川の生誕地でもある

ここは、芥川龍之介が生まれた場所でもあるというのだ。

それによると
「明治16年ころ、この付近に『耕牧舎』という乳牛の牧場があり、作家・芥川龍之介(1892-1927)は明治25年3月1日、その経営者 新原敏三の長男としてここに生まれた。

龍之介は誕生後7か月にして、家庭の事情から母の長兄・芥川道章に引き取られて、本所區小泉町(現 墨田区両国3丁目)に移り、芥川家の養子となる。

東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り
『地獄変』『羅生門』『河童』『或阿呆の一生』など多くの名作を残したが、昭和2年35歳で自害している」と紹介されている。

明石町

かつて、ここに大名屋敷や牧場があったことは、今では全くうかがい知ることはできない。

次に、浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫の屋敷のあった場所に向かった。

日比谷通りの終焉の地

ここは、港区新橋4丁目。

前の通りは日比谷通りだ。

環状2号線の建設工事で、一時、切腹の場所を知らせる碑が撤去されていたが、先日新しくなった碑が以前と同じ場所に建てられていた。

そして碑のそばには、まだ若い桜の木が植えられている。

古い碑のそばにも桜が植えられていて、この付近では一番早く花をつける桜だった。

今度新しく植えられた桜も、前の桜と同じように早咲きで、もう7分程度の花を開いていた。

日比谷通り沿い

先日、30歳くらいの男性と話をしていて「浅野内匠頭」を知っているかどうか尋ねたら「知らない」という答えだった。

昔は、忠臣蔵といえば「日本人なら誰でも知っている物語」と言っても過言ではなかった。

しかし時代も少しずつ変わり、今では、昔の話になりつつあるようだ。

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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