
江東区にある亀戸天満宮。
「藤の花はまだ残っているのでは」と期待して行ったのだが、花はすでに終わり、新緑がこんもりと盛り上がっていた。
今日は、亀戸天満宮の本殿の横に建つ一つの顕彰碑を紹介したい。

これがその碑。
国産マッチの創始者・清水誠(弘化2年・1845-明治32年・1899)の事蹟を顕彰するものだ。
実は清水誠の顕彰碑は、石川県金沢市の卯辰山の頂上付近にもある。
金沢で6年間暮らしたので、ジョギングで何回となく卯辰山に上り、その際に清水誠の顕彰碑を見る機会があった。
「金沢藩士で国産マッチを作った人」として、その名前は知っていた。
だから亀戸天満宮で、この碑を見つけた時は、旧知の人に会ったような気がした。
清水誠とマッチの関係は、日本燐寸工業会などが運営する「マッチの世界」というサイトに、次のように書かれている。

「明治2年(1869)に金沢藩の藩費でパリに留学した清水誠は、明治6年(1873)には廃藩置県で文部省留学生となり、同年フランスの工芸大学に入学している。7年に外遊中の宮内次官・吉井友実とパリのホテルで会談した際、吉井が卓上のマッチを指さして『このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか』と言われて、清水誠はマッチを日本で製造する決心をしたといわれている。
清水誠は官費留学生であったことから、8年に海軍造船官として横須賀造船所に勤務した。その傍ら、暇ある毎に東京に出て芝三田四国町にある吉井友実の別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、試売している。従って日本におけるマッチを工業的に製造を始めたのは明治8年(1875)となる」
国産マッチが誕生したのは、わが故郷・芝だったというわけだ。
有名なアンデルセンの「マッチ売りの少女」が出版されたのは1848年、明治維新の20年ほど前になる。
人類は火を手に入れ、自由にすることで、文明は大きく進歩してきたといわれる。
「マッチ売りの少女」が出版された江戸の末期、日本では、まだマッチは普及していなかった。
火打石を使って火を起こしていたのだった。
マッチの登場によって、暮らしは革命的に便利になったことだろう。
暮らしや産業への寄与、いずれの面でも大変な功労者だったからこそ、金沢と東京にこうして顕彰碑が建てられたというわけだ。

余談になるが、清水誠にパリでマッチを作ることを持ちかけた宮内次官・吉井友実(ともざね)という人物を探ってみると、これまた面白い人物だった。
吉井友実は薩摩藩士として幕末、明治維新前夜には、岩倉具視や西郷隆盛らと王政復古の協議に加わり、戊辰戦争では東北各地に転戦するなどしたほか、坂本竜馬とお龍の鹿児島行に際しても屋敷に滞在させたという。
そして、日本最初の新婚旅行ともいわれる「竜馬とお龍の霧島の湯治旅行」にも同行したとのことだ。

更に、その孫は歌人として知られる吉井勇(1886-1960)だった。
放蕩の暮らしをする中で、京都・祇園をうたった歌はよく知られている。
「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」
そして、黒沢監督の「生きる」の中で志村喬が歌った「ゴンドラの歌」も吉井勇の作詞だ。
「 いのち短し戀(こい)せよ少女(をとめ)
朱(あか)き唇(くちびる)褪(あ)せぬ間に
熱き血潮(ちしほ)の冷えぬ間に
明日の月日(つきひ)のないものを」

百円ライターの出現や、ガスの点火にマッチが不要になるなど、暮らしの中からマッチが姿を消しつつある。
日本燐寸工業会のデータによると、日本のマッチの生産量は
1966年(昭和41年)当時の約60万トンと比べて、2004年(平成16年)は約3万トンと、20分の一に激減している。

しかし、「日本のマッチの種類の多さは世界一、多品種少量生産に対応できるシステムが確立しているので、世界中から、広告宣伝用のマッチの受注がある」と「マッチの世界」には書かれている。
円高や時代の変化に負けず頑張ってほしい。
「5月12日はマッチの日」と云うのは、清水誠が1869年(明治2)5月12日、ヨーロッパ留学のため横浜港から出航したことに因んで決められている。

小金井公園にある「江戸東京たてもの園」。
江戸から近代までの貴重な建築物を、多数、保存・展示している。
これは、江戸中期に建てられた農家の建物。現在の世田谷区岡本から移築したものだ。

春先に訪れたとき、この建物の中で、ボランティアの人によって「昔語り」が行われていた。
とても、上手な語りで、多くの人が話に聞き入っていた。
各家庭の中で、こうして昔話を子供たちに語る風景は、今ではすっかり姿を消してしまった。
しかし、東北をはじめ全国の農村地域では、私たちの親の世代の人たちまでは、こんな暮らしを経験しているはずだ。

つい最近、昔の本などを整理していたら、民話の語り手として有名だった山形県の佐藤孝一さんから頂いた冊子が出てきた。
「みちのく民俗雑学と由緒ばなし」には、月ごとに行われる行事やその由来などが書かれている。
先祖から代々伝えられてきたものを、一つにまとめたものだ。

佐藤孝一さんは大正9年のお生まれで、私がお会いしたのはもう30年近く前になる。
山形県上山市楢下(ならげ)で果樹農家をなさっていた。
佐藤さんは、600余りの昔話を語ることのできる人として、山形では、かなり知られた方だった。

佐藤さんが伝承してきた話は、記録されて「佐藤家の昔話」という本にまとめられているほか、映像でも記録されインターネットで見ることもできる。
現在もお元気かどうか、ネットで検索したところ、2008年に亡くなられていた。
昔、佐藤さんにお話を伺った中で、今でもよく覚えていることがある。
それは、『民話が伝えられるのは「親から子へ」ではなく、祖父母から孫へという「隔世伝承」だ』という言葉だった。
親は生活を支えていくのに精いっぱいで、話を子供に語って聞かせるなどの余裕はなかったのだろう。
孝一さんの祖父の権六さんという方は二千もの話を知っていて、物心ついたころから囲炉裏端で、薪をくべながら昔語りを何度も何度も聞かされたということだった。

2千もの話を伝えてきたおじいさん、
日本にもアラビアンナイト・千夜一夜物語以上の民話の世界があったということになる。
佐藤さんも、一生懸命、昔話を覚えようと努力してきたと話していた。
しかし、お話を伺った当時・昭和60年ころ、佐藤さんには小学校低学年のお孫さんがいたものの、「昔ばなしを孫に伝えることはあきらめた」との話だった。
雪国の冬、藁仕事は姿を消していたし、囲炉裏もなくなった。
孫たちは自分の部屋を持ち、テレビもある、本もある。
こうした環境の変化の中で、私たちのすぐ前の世代を最後に、暮らしの中から民話が消えて行ってしまった。
今、自分も孫のできる年齢になった。
孫たちに自分の経験や、薀蓄を傾ける場がないことを、少し寂しく思う。
佐藤さんの昔語りは、こちらに記録されているのでご覧ください。
http://bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=12

昭和33年12月23日、東京タワーの開業前日に撮影された写真が、本に載っていた。
東京タワーの手前に、赤羽橋、芝公園グラウンド、芝園橋、戸板女学園(今の戸板女子短大)が写っている。
高いビルは全く無く、見渡す限り、低い家並みが続いている。
先の戦争で、このあたりが空襲を受けたことは母親などから聞いていた。
しかし、こうして航空写真で見てみると、「当時はこんなに平面的な街だったのだ」と改めて驚く。

これは私が小学生か中学生の頃か、おもちゃのカメラで撮影したもの。
家の2階の屋根に上がって、東京タワーを写したのだが、芝公園のグラウンド越しにタワーのほぼ全景が写っている。

これは前の写真とは逆に、東京タワーから芝公園のグラウンドの方を撮影したもの。
プリンスホテルのパークタワーが建ち、グラウンドはその陰になって殆んど見えない。

更にアップしてみる。
芝公園グラウンドが僅かに写っている。
照明が見えるので、野球場だとわかる。
首都高速の下は日比谷通りが左右に走っているが、まったく見えなくなっている。

これは、日比谷通り沿いに建つ日本電気(現在のNEC)の本社の建物。
昭和47年の撮影だから、東京タワー開業から14年後だが、それでも周辺のビルの数は数えるほどだ。
日比谷通りが、左からの第一京浜と合流して品川方向に延びているのがわかるが、
写真では高輪の先まで、よく見える。

これは、今の日比谷通り。
戸板女子短大の前から、第一京浜の方を撮ったもの。
ビルが壁のように道路沿いに建って、左右共に遠景の見通しは全くきかない。
浦島太郎も驚くほどの変わりようだ。

愛宕の森タワーに映る東京タワーを写してみた。
日本の歴史の中で、僅か50年でこれほど変わったことは、おそらくないのではないか。
更に通信技術をはじめ科学の飛躍的な進歩で、暮らしも大変なスピードで変化している。
東京スカイツリーが間もなく開業するが、開業して50年たった時、世の中の暮らしはどのように変わっているのだろう。
おそらく、これまでの50年以上に劇的な変化を遂げているのに違いない。
そんなに急がなくても、良さそうな気がするのだが。

隅田川に架かる厩橋。
川の上流、右手にスカイツリーが見える。開業まで、あと1週間となった。
この橋を墨田区から台東区側に渡ってしばらく行ったところに、「狂歌と川柳」ゆかりの地がある。

橋を渡ってしばらくすると左手に「榧寺(かやでら)」が見えてくる。

門前にこんな案内が掲げられていた。
葛飾北斎が、「榧寺の高灯籠」という絵を描いていること、そして狂歌作者で「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」と号した石川雅望(まさもち)の墓があることが記されている。
石川雅望(1753-1830)は、ウィキペディアによると
「浮世絵師石川豊信(いしかわとよのぶ)の五男として江戸に生まれる。
狂名、宿屋飯盛(やどやのめしもり)。
家業の宿屋を江戸小伝馬町で営むかたわら、狂歌の先達、大田南畝(四方赤良、よものあから)のもとで狂歌を学ぶ。天明年間初期(1781年 - 1789年)、狂歌四天王の一人として版元である蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)から多くの狂歌絵本を出版。
寛政3年(1791年)宿屋の営業許可をめぐり贈収賄の嫌疑をうけ、江戸払いとなる。この間、国学研究に打ち込み、雅語用例集『雅言集覧』や『源氏物語』の注釈書『源註余滴』などを書く。
文化5年ごろから狂歌師として復活。雅望のグループを伯楽連と称し、天明狂歌界を席巻する一方、俳諧歌を主張した鹿津部真顔(しかつべのまがお)と対立。狂歌の軽妙さと諧謔性を重んじ、文化文政時代の狂歌壇を二分する勢力となった」とある。

作品を調べるとこんなものがあった。
「金を手に 握りこぶしで 我があだの 貧乏神のつらをはりたや」というのがあった。
これは何とも分かりやすい。
「金を手にした握りこぶしで、恨みかさなる貧乏神の面を張り飛ばしてやりたい」というもの。
昔も今も、お金に苦労する庶民の気持ちは変わらないようだ。
また、こんなのもある。
「蛍とる 数もひとふた みそこしに よつゆもいつか むすびけるかな」
蛍狩りの風景だが、次第に夜露にぬれる情景を、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つと数詞をうまく読み込んだところがなかなか巧みだ。
「こんなものが作れたら、なんと毎日が楽しくなることだろう」と思う。

榧寺を後に、春日通りをさらに東へ向かう。
三筋2丁目目の交差点に「川柳発祥の地」の碑が立っている。
このあたりに、川柳を文芸として確立した柄井川柳が暮らしていたのだ。

ウィキペディアには柄井 川柳をこのように説明している。
『柄井 川柳(からい せんりゅう 享保3年・1718年 - 寛政2年・1790年)通称は八右衛門。柄井家は代々浅草新堀端の龍宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で、宝暦5年に家を継いで名主となった。
宝暦7年8月25日(1757年10月7日)前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行している。
これ以降、月3回5のつく日に句合を興行している。宝暦12年10月15日(1762年11月30日)の句合には総句1万句を超し、その流行ぶりがうかがえる。川柳(八右衛門)の出題は新しい趣向を好み、選句眼にも優れていたことが、上級武士も含め江戸における前句付作者に好まれた』
付け加えると、
前句付の前句とは、
「盗人をとらえてみれば我が子なり」という有名な川柳の前句は、「切りたくもありきりたくもなし」という七七。
この前句に、どんな五七五を付けるのかを募るのが「万句合」で、そこに応募してきた作品のうち優れたものが「誹風柳多留」に載せられているというわけだ。
「はえば立て 立てばあゆめの 親心」
「寝ていても 団扇のうごく 親心」 よく知られた名句は、この「万句合」から生まれた。
碑は、「万句合」が行われてから250年になるのを記念して建てられたものだ。

碑から近いここ龍宝寺には柄井 川柳の墓がある。

そして、寺の前の通りは、「川柳通り」と最近、名付けられたという。
過去の歴史遺産を地域活性化のために活用することは大賛成だ。
このことで、地域の過去の歴史が、後世に伝えられてゆくからだ。

通りを探して見たが、川柳に関するものは何もなかった。
具体的な取り組みはこれからのようだ。
ユニークな活動を楽しみに待ちたいと思う。
なお私は、単なる言葉遊びではなく、人生や暮らし、身の回りをしっかり見つめた川柳が好きだ。
「俊秀流 川柳入門」(家の光協会)の著者・大木俊秀氏の句を紹介したい。
「かまきりも稲刈りをしたいんだとさ」
「肝臓に会って一献ささげたい」
「コンパスにこの満月は描けまい」
どうです。いいでしょう?

先週の新橋・烏森神社の祭りに続いて、5月11日から13日まで、台東区の下谷神社の祭りが行われた。
下谷神社は、JR上野駅から浅草通りを駒形橋の方にゆく途中、右手にある。
神社境内に「下谷神社大祭は、『昔から江戸の祭りは下谷から』と云われるように、下町で一番早い夏祭りとされ、千年以上の歴史を持つ」と書かれた紙が貼られていた。
今回は、下谷神社大祭で、下町のお祭りファッションに焦点を絞って、写真を撮ってみた。
その写真を紹介する前に、今から60年前の港区・芝新堀の子供たちの祭りファッションを見てみよう。

この写真を撮影したのは昭和27年ころ。
子供たちの格好は、皆、大体同じで、半纏に白の短パン、鉢巻を頭に結んで、足元ははだし足袋か草履といういでたち。
いかにも子供らしいが、カッコいいとまではいかない。
最新の祭りファッションは、この当時とどのように変わったのかを見る前に、年配の人に一つクイズを出そう。
この中に、一人役者になった子供がいる。それは誰だか分かりますか。
ヒントは、テレビドラマの「肝っ玉母さん」「ありがとう」「必殺仕置屋稼業」だ。

さて、下谷神社の周辺で撮影した子供たちのファッションだ。
粋で、いなせで、とてもカッコいい。
パッチ、ダボシャツ、前掛け、バンダナ、、昔のようにワンパターンでなくてとてもカラフル。

肩から下げた鈴や、髪形も可愛らしい。

みんな、このいでたちで山車を引いていたのだが、子供神輿を担がせたら、絵になりそうだ。

お母さんと子どもが、衣装をコーディネートしている姿も多く見かける。
この格好は神輿を担ぐ衣装で、裏方の格好ではない。
私の子供の頃、女性たちの役どころは祭りの裏方で、神輿を担いだりする姿を見た記憶はない。
一部、花柳界のお姉さんたちが担ぐ神輿があったかもしれないが、今日のように女性が普通に神輿を担ぐ風景は、なかったと思う。
祭りの様子は、ずいぶん変わってきているという印象だ。

この女性は、乳母車に幼児を乗せて、祭りに参加。
子連れ狼の女性版といった感じもする。

多分、おじいちゃんと孫の組み合わせ。
おじいちゃんの和服姿が、何ともカッコいい。

そして、この若夫婦は、幼い娘さんにも祭り衣装を着させ、乳母車を押しながら祭りを楽しんでいる様子だった。
ヘヤースタイルと衣装を見ると、まさに「和洋折衷」「和魂洋才」といった感じだ。
私の地元の祭りでは、町内に住む外国人も神輿を担ぐ。
そして、盆踊りでは、やぐらの上に上がって太鼓も叩く。
グローバル化が進んでも、日本の祭りはこれからもずっと、続いていくに違いない。
さて、前の方で出したクイズの答えです。
答えは、「新 克利さん」。
年配の方には、画面の右端に写っているのがわかると思います。